ウェディングベル


「ちー兄、覚えてる?この木の根っこのところ」



「ん?…あぁ、名前を彫ったヤツか?」



「ずーっと海を見ていれるように、ちー兄が掘ってくれたヤツだよ」



まだあるのか?と、古屋千秋は木にしゃがみ込んでその側面を指の腹でなぞる。


暫くして歪な凹みがあるのを見つけて、指先で汚れや埃を払い落としてみると、そこにはひらがなで「ちあき みさと」と書かれていた。



「おー、まだあったな!」



柔らか味を帯びたその木の傷口は数年の歳月を経ても、その約束を忘れないようにと残っていてくれていたのだ。


私もその傷口に触れる。


優しさと共に、痛みが指先を伝って、胸に突き刺さった。


まるでささくれが指に刺さり、その棘が心臓に刺さったかのように。


この痛みは、私自身の痛みなのか、それとも木の痛みなのか。



「下手くそな字だなぁ、俺」



古屋千秋は何ともなさそうに笑って言葉を続けているから、きっとこれは木の痛みが移ったわけじゃなく、私自身の痛みなんだろう。



「嬉しかったな、コレ」



言って、私は立ち上がる。


そろそろ太陽が人々の目を一瞬盗んで、夕日に変わろうとしている。


冬の夕暮れは早い。風がまた冷たくなっていく。波は変わらずに、ただ、絵の具を取り出して違う色を付け始めている。


< 33 / 42 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop