ウェディングベル
「ちー兄、覚えてる?この木の根っこのところ」
「ん?…あぁ、名前を彫ったヤツか?」
「ずーっと海を見ていれるように、ちー兄が掘ってくれたヤツだよ」
まだあるのか?と、古屋千秋は木にしゃがみ込んでその側面を指の腹でなぞる。
暫くして歪な凹みがあるのを見つけて、指先で汚れや埃を払い落としてみると、そこにはひらがなで「ちあき みさと」と書かれていた。
「おー、まだあったな!」
柔らか味を帯びたその木の傷口は数年の歳月を経ても、その約束を忘れないようにと残っていてくれていたのだ。
私もその傷口に触れる。
優しさと共に、痛みが指先を伝って、胸に突き刺さった。
まるでささくれが指に刺さり、その棘が心臓に刺さったかのように。
この痛みは、私自身の痛みなのか、それとも木の痛みなのか。
「下手くそな字だなぁ、俺」
古屋千秋は何ともなさそうに笑って言葉を続けているから、きっとこれは木の痛みが移ったわけじゃなく、私自身の痛みなんだろう。
「嬉しかったな、コレ」
言って、私は立ち上がる。
そろそろ太陽が人々の目を一瞬盗んで、夕日に変わろうとしている。
冬の夕暮れは早い。風がまた冷たくなっていく。波は変わらずに、ただ、絵の具を取り出して違う色を付け始めている。