センチメンタル・ファンファーレ
◇
実家に戻ってパソコンを立ち上げたお兄ちゃんが、
「はあ!?」
と大きな声を上げた。
酔っ払ったお父さんをソファーに放り投げて、私、ちなちゃん、お母さんの三人はお兄ちゃんの後ろからパソコン画面を覗き込む。
川奈さんは対局中よくやるように、腕組みをして宙を見上げ、身体をゆらゆら揺らしてリズムを取っていた。
「…………互角に戻ってる」
「えっ!!」
お兄ちゃんを押し退けてディスプレイにかじりつくけれど、さっぱりわからない。
お兄ちゃんはスマホで何か検索して、ちょっと考えたあとポケットに戻した。
「川奈の竜に対して先手が角を引いて守ったことで、逆転の綾が出たらしい」
「それで?」
「今、命からがら逃げてるところ」
市川竜王は金を打って、馬を差し向けて、桂馬を打って、歩を進めて……川奈さんの玉をどんどん攻めているけれど、川奈さんは取ったり逃げたりしながら、玉をするすると自陣の奥へと下げた。
『気づいてみると、後手玉は安全なところに逃げ込んでますね』
ははは、と笑って小多田さんは川奈さんの玉をズリズリ移動させた。
『形勢はいかがですか?』
『これ、後手が良くなってると思いますよ。川奈六段ですからね。こうなると捕まえるのは容易ではないです』
祈るように組んでいた手をほどく。
「神様が味方してくれたのかな?」
川奈さんは「ズルして勝っても嬉しくない」と言っていたのに、つい何度も神様に頼んでしまった。
罪悪感で胸が痛い。
ところがお兄ちゃんはだらしなく寝そべりながら、鼻で嗤った。
「神様ともあろう方が、川奈の味方なんかするか。川奈が狙ってやったことだ」
「『狙って』って、そんなことできるの?」
「将棋で相手のミスを誘うのは常套手段だよ」
川奈さんがバシッと音をさせて桂馬を跳ねた。
背筋も伸び、優雅にお茶をすすっている。
「本っ当にわかりやすい人だね」
ちなちゃんは半笑いでそう言った。
「あら、いいじゃない。何考えてるかわからない人より私は好きよ。ねえ、お父さん」
お母さんが淹れた緑茶を、うん、とか、すん、とか言いながら、お父さんは飲んでいた。
残り時間も逆転して、市川竜王の持ち時間はあと五分を切っていた。
じっと盤を見ていた川奈さんが、腕組みを崩す。
「……いけ、川奈」
息を詰めて見ていなかったら聞き逃していたようなささやきが聞こえた。
「……なんだよ」
見つめただけで何も言っていないのに、お兄ちゃんは不機嫌全開だ。
「やっぱり応援してるよね?」
「応援はしてない。断じて」
コバルトブルーの羽織からするすると手首が伸びて、先手の歩を取ると、飛車を掴む。
△4七飛成
防御線を叩き割るような、鋭い駒音だった。
そのあとも、川奈さんは桂馬、金、と打ってどんどん先手玉を追い詰めている。
市川竜王の表情は変わらないけれど、小多田さんの解説ではもう逃げ場はないのだと言う。
『市川先生、これより一分将棋でお願いします』
『はい』
持ち時間を使い切り、市川竜王はお水を飲んだ。
襟の合わせ目を直し、羽織を直し、姿勢を正す。
『50秒ー、1、2、3、4、』
『負けました』
深く一礼し、はっきりと告げた。
負けて尚、竜王の矜持を示すような声だった。
『ありがとうございました』
川奈さんの方はため息同然の声で、くたくたと萎れるような礼だった。
見た目には、勝者と敗者が逆のようだ。