センチメンタル・ファンファーレ
△4手 ファイター
寝る直前に白ぶどうサワーを飲んだのがよくなかったのか、尿意に勝てずベッドを這い出た。
私は和室を使っているので、トイレに行くには隣接するリビングを抜けなければならない。
半分寝たまま自室に戻る途中、壁の時計を確認したら一時半を過ぎたところだった。
ついでに少しだけ開いていたカーテンを閉め直そうとしたら、黒い影が見えた。
「もう、ちなちゃん……」
夜風にはためいていたのは、今朝洗って干しておいた私のデニムだった。
珍しく晴れたので思い切ってデニムも洗ったのだ。
ちなちゃんは、タオル類は取り込んでくれたのに、竿に直接かけてあったデニムを見逃したらしい。
サンダルを引っ掛けてベランダに出て、デニムを竿からはずすと、パジャマから出た腕に冷たかった。
こころなしか重い気がする。
くんくんと匂いを嗅いでみると、湿った夜の匂いがした。
「……洗い直しかな」
ひっそりとため息をついたとき、外でうなり声が聞こえた。
ビクンと心臓が跳ねたけれど、犬か猫かと通りに目を走らせる。
もっと上の階には赤ちゃんもいるけれど、そんなにかわいらしい声ではなかった。
ほんのりした街灯の明かりだけでははっきり見えない。
「はあ~~~~~~~、もう」
ふたたびか細い声がした。
犬でも猫でもなく男性のもののようだ。
ベランダから身を乗り出してその方向に顔を向けると、手すり壁にぐったりもたれる人影が見えた。
暗い中ではっきり視認はできないけれど、この302号室から右下の位置、二階の角部屋は201号室だ。
「川奈さん?」
今朝テレビで見た姿よりずっとしょぼくれたその頭に、小さく呼び掛けた。
けれど重い闇に跳ね返されて届かない。
川奈さんは壁に額を預けてうずくまったまま動かない。
もう少しだけ声を張り上げようかと息を吸ったら、
「うーーーーーーーー」
とまた小さくうなった。
コンコンと数回額を打ちつけて、そのまま動かなくなる。
なんとなく話し掛けられなくなり、持ち上がることのない頭を見つめていた。
どのくらいそうしていたのか。
背中が痛くなったので、そっと室内に戻った。
川奈さんはあのまま動かなかった。
まだまだ眠かったはずなのにベッドの中に戻ってもすっかり目が冴えてしまった。
何度寝返りを打っても眠れず、枕元のスマホで時刻を確認すると二時二十一分。
ふっと思い立ってそのまま将棋連盟のホームページを開く。
『棋王戦
外崎 大二朗 川奈 結
>携帯中継』
日付が変わった今日、川奈さんは対局らしい。
対戦相手は現在無冠ながらタイトルを数期獲得経験のある現役A級棋士だった。
お兄ちゃんと一緒に住んでいたとき、例会(奨励会の対局日)前日はピリピリしていたことを思い出した。
長年のことで多少慣れたけれど、放って置く以外の対処法は知らない。
眠れない。
お兄ちゃんのときは気にならなかったのに、眠れない。
もう一度スマホを見たら、二時五十三分を表示していた。