センチメンタル・ファンファーレ
「川奈さん、大丈夫?」
「何が?」
「……体調とか」
「大丈夫だよ。ちょっと睡眠不足だけど、それはいつものことだし」
私が首をかしげると、川奈さんは自嘲気味に笑った。
「対局前日はあんまり眠れないんだ。小学生のときからそうだった。大会の前の日はそわそわしちゃって」
「遠足の前日みたいな?」
「そうだったらいいけど、楽しい気持ちだけじゃない」
濡れた髪の毛をがしがしと掻き乱す。
「何回負けても、負けるのは嫌なんだよね」
川奈さんの勝率は六割五分。
年間三十局対局した場合、十局程度、一~二ヶ月に一回は負ける計算になる。
ある程度慣れもするし、切り換えも上手になっていくものらしいけれど、慣れ切ってしまうのも良くないのだろう。
「いや、でも、勝てるって思ってるよ! 楽しみな気持ちの方が大きいし! 対局当日に情けないこと言うのはよくないな」
あはは、と笑って髪の毛を拭く川奈さんは、いつも通りのようでいて、やっぱり神経質になっているのだと思う。
「情けないのはいつものことだけど、」
「弥哉ちゃん、ひどい」
「でもナーバスになるのなんて当たり前でしょ? 遊びじゃないんだから」
ちょうど今朝もちなちゃんが「今日、部全体の会議なの。私が担当で司会もしなきゃいけなくて、食欲ないからコーヒーだけでいい」と頭を抱えていた。
ギリギリまで「行きたくない」と駄々をこねて。
「私もお客様相手にひとりで対応するときは緊張するし怖い。みんなそうだよ。私なら、気楽に指してる将棋より、緊張で漏らしながら震える手で指してる対局が観たい」
「いや、そこまでひどくないよ、さすがに」
川奈さんは腕を組んで宙を見上げた。
「でも、そっか。観る人ってそんな風に思ってるんだね」
「“他人の不幸は蜜の味”は基本でしょ?」
「弥哉ちゃん、ひどい」
「そろそろ行くね。遅刻しちゃう」
腕時計を見てエレベーターより階段かな、と思って歩き出した私の背に、
「弥哉ちゃん」
と声がかかる。
振り向くと、川奈さんがビニール袋と手を振っていた。
「これ、ありがと。お仕事頑張ってね」
うなずいて一歩進むと、また声が届いた。
「よかったら携帯中継見て」
「アプリの登録してないし、棋譜だけ見てもわかんない」
階段で曲がろうとして立ち止まると、川奈さんはまだこちらを見ていた。
「川奈さんも頑張ってね。あと、風邪引かないでね」
苦しそうな空気を背負って対局に臨むお兄ちゃんには、「頑張って」と声を掛けられなかった。
お母さんが何気なく「頑張ってね」と言ったのに対して「頑張ってるよ!」とブチ切れていたのも見たことがある。
川奈さんも型通りの挨拶だと思っただろう。
でも私には、心からこの言葉しか出て来なかった。
『頑張って』
言葉さえ、月並みなことしか言えない。