センチメンタル・ファンファーレ
▲7手 トリオディナー



傷だらけで濁ったグラスの縁を指でなぞってため息をついた。
いったい何百何千の人が、これで仕事の疲れ、失恋の傷、得体の知れないモヤモヤを癒したのだろう。

「はあ、なんだかなあ」

「なんだよ」

真向かいの席で同じようにお兄ちゃんも傷だらけのジョッキを置いた。

「私もよくわからない」

「はあ?」

ホタテの貝焼きを口に入れたら、うまみの深い醤油がひと滴テーブルにたれた。

「んーー、おいひい」

もはやヤバい薬品を使っても取れないくらい、油でベタベタのテーブルだけど、一応おしぼりで拭いておく。

この『居酒屋せい吉』は、私の自宅マンションからひと駅隣り、お兄ちゃんの住むアパートの近くにある。

胃の中に溜まった得体の知れないモヤモヤをどうにかしたくて、ちなちゃんを食事に誘ったのだけど、

『デート』

とすげないメッセージが返ってきた。
仕方なくお兄ちゃんに、

『この前結局奢ってもらってない!』

と文句を言ったら、ここに呼び出されたのだった。

「とにかく何を食ってもうまいから」と言われたのに、店の暖簾(のれん)がほつれているのを目にしたときは、騙されたと思った。
ところが、とにかく何を食べてもおいしい。
しかも、店主である清吉さんが独自のルートで新鮮な魚介類を仕入れてくるから、値段も安い。
そうなれば当然人気なので毎日満席。
水曜日の今日もカウンター一席しか残っていない。

だから単価は安くとも相当儲かっているはずなのに、清吉さんは大の競艇好きで、儲けのほとんどが競艇に消えていくのだという。
そのため古い店舗は改装されることもなく、今宵もまた古びていく。

「ここにはドキドキもときめきもないね」

「今さら何を」

入り口のガラスにはヒビが入っていて、ガムテープで補強されていた。
これはお兄ちゃんが奨励会員の頃からすでにこの状態だったらしい。
騒々しい笑い声が常に会話の邪魔をするこの店は、まるで「ここで恋だの愛だの語らせねーぞ!」と圧力をかけてくるかのようだ。

「居心地よくドキドキしたい」

縁くんと食事したのは先週のことだ。
あまり乗り気でなかったのに、思ったより気取りがなくて、正直なところ楽しかった。
時折見せる艶めいた雰囲気には困ったけれど嫌な気持ちはせず、ドキドキする心臓の音さえ楽しんだくらい。

だけど、自宅に着いたらなんだかどっと疲れていた。
縁くんに慣れてない緊張のせいなのか、単純に心臓が動きすぎたせいなのか。
とにかくベッドに倒れ込んで、一度そのまま寝てしまい、夜中に起きてそこからシャワーを浴びた。

二十四歳は社会人としては経験値が足りないけれど、それなりに察しはつく。
察して黙ってることもできるし、対処できることならする。
それなのに今胃の中に抱えている感情は、どうにも掴みどころがない。

「居心地の良さとドキドキって、そもそも相反するものだと思うけど?」

熱々のモツ煮にやけどしたらしく、お兄ちゃんはビールで舌を冷やしている。

「それ、おいしそう」

「うまいよ」

「豆腐ちょうだい」

箸を伸ばして荒くつぶされた豆腐に突き刺し、ふーふー冷ましてから口に入れた。

「おいしい」

もう一度箸を伸ばす私に構うことなく、お兄ちゃんはモツを口に運ぶ。
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