センチメンタル・ファンファーレ
「ピアノって、何歳から習ってたの? 将棋とどっちが先?」
「ピアノが先。物心ついたときにはもう習ってた。というか、母親がピアノの先生だった」
「縁くんも音楽一家?」
「いや、父親は何もできない。母親がやってたのも子ども向けの教室だったから、小学二年生のときにもっと大きな教室に移った」
ナスのミートソースグラタンは本当に熱くて、相づちも打てずに身悶えていたら、縁くんに笑われた。
「何歳まで習ってたの?」
「高校卒業まで。それも奨励会に入ってからは満足に練習できなくて、ただ通ってただけだった。なかなか三段に上がれなくて、卒業と同時にピアノもやめた」
「でもいいなあ。将棋もできて、ピアノも弾けて、イケメンで」
縁くんは自嘲気味にゴボウフライを口に放り込む。
「どれひとつモノになってないけどね」
「そんなことないでしょ。将棋でプロになって、イケメンでモテて、どうせピアノで女の子たぶらかしてるだろうし」
「女の子口説くのにピアノは必要ないな」
カランとグラスの中で氷を回す仕草は、ウーロン茶のくせにただならぬ色気を垂れ流していた。
「ハイハイ。スミマセンデシタ」
「恵まれた部分があることは否定しないけど、どれもこれも“そこそこ”止まり。いろいろできるより、ひとつに秀でた方が良かったかなって思うよ」
「縁くんでも、そんな風に思うんだね」
「たまにね。書道七段は役立ってるけど、ピアノとバク転はできなくてもいいかな。あと、50m6秒で走れなくていいから、もう少し棋力上げたい」
「……搭載し過ぎて機能不全起こしそう」
取り分けてくれたパスタは、ケッパーの散らし具合まで美しく盛られていた。
「でも、人生の選択肢も楽しみも何もかも諦めて、将棋にすべてを捧げた人間だけが名人になれるなら、俺は無理だと思う」
フォークを止めて、縁くんは少し考える。
「こうして女の子と食事することもなく、生きる時間のすべてを将棋に向けるって、なんでできるんだろう。俺が怠惰だってことだけじゃないと思う」
プロ相手に一局勝つには、相応の努力が必要だ。
口ではこう言っても、縁くんだって当然努力はしている。
「もしお兄ちゃんが将棋にすべてを捧げて名人を取ったら、もちろんすごいことだし、嬉しいけど、家族としては心配だな。人間として普通に友達と会ったり、恋をしたり、遊んだりしていて欲しいよ」
人としての基本的な幸せと名人は、天秤にかけなければならないものなのだろうか。
歴代の名人は、もう少し豊かに生きていた気がするけれど、時代はどんどんシビアになっているようにも感じる。
「深瀬名人……」
縁くんがぼんやりと宙を見たあと、吹き出した。
「想像つかないな」
「うん、私も」
お兄ちゃんは、人間としては大丈夫だ。もっと将棋の勉強をした方がいい。
「ところでさ、弥哉の元彼、髪型すごいことになってない? SNS見た?」
「見てない。どういうこと?」
泰宏は相変わらず弁髪を目指しているけれど、残す部分を丸ではなくハート型にしようと苦心しているらしい。
伸ばしたり剃ったりしている頭は、汚ならしいカオスと化していた。
「……人生を謳歌してるなあ」
「こういう人見てると、なんかホッとするよね。俺ファンになろうかな」
人間は弱い。
ご立派な説教より、泰宏みたいな人の方が、案外たくさんの人を救うかもしれない。