センチメンタル・ファンファーレ
川奈さんは箸を置き、読みを入れるときのように腕を組んで宙を見る。

「まだ星々のまたたくうちに起き出して、布団を上げてさ、窓を開けて澄みきった空気を取り込んでから、将棋の神様に感謝を捧げるんだろうね」

川奈さんは両手を合わせて祈る。

「部屋を箒で掃いて、雑巾がけして、井戸水で身を清めたら、朝日が昇るとともに駒を磨いてたりするんだよ、きっと」

「掃除機と埃取りワイパーじゃダメなの?」というちなちゃんの疑問に、短く「ダメです」と答える。

「俺が一歩進んで三歩戻ってる間に、五歩も六歩も進んでさ、偶然連盟で会ったとき、
『川奈さん、先日の対局の棋譜、拝見しました』
って、丁寧に頭を下げられるわけ。
『いやいや、そんな。浅井竜王・名人様にお見せできるようなものでは……』
『そんなことありません。どんなひどい将棋からでも、学ぶことはたくさんあります』
って、天然で嫌み言われちゃったりして」

「嫌みじゃなくて事実だろ」

「それでうっかりさ、
『浅井竜王・名人様、よろしかったらラーメンなどご一緒しませんか?』
って誘ったら、
(それがし)、修行中の身ゆえ、食事は玄米にわずかな野菜と味噌だけと決めております。川奈さんもラーメンなんて食べていると、終盤のキレが悪くなりますよ』
なんてね」

「お兄ちゃん。その浅井さんって、こんな胡散臭い話し方するの?」

「んなわけあるか。もっと普通。これはバカな妄想」

川奈さんはひとり、妄想を続けている。

「『川奈さん、いけません! 不浄の左手で盤や駒に触れるなんて!』」

「何の宗教だっけ? それ」

「『わたし、左利きだからぁ』って女もイラッとしない?」

「ちなちゃん、それ言い方の問題だって」

不浄の左手で食べたメロンは、普通に甘くておいしかった。

「『では、盤はどうやって運ぶのですか?』
『心です。心で運ぶのです』」

ちなちゃんはビールを取りに冷蔵庫に行き、お兄ちゃんもご飯のお代わりを盛りに立ち、私はチョコミントアイスの蓋がなかなか開かなくて格闘する。

「『川奈さん、ご結婚されたんですよね? おめでとうございます』
『えへへ、ありがとうございます。浅井竜王・名人様はご結婚なさらないんですか?』」

「弥哉、醤油取って」

「お兄ちゃん、かけ過ぎじゃない?」

「『拙者(せっしゃ)、女人に触れると読みの正確性が失われますので、生涯妻帯しない所存です』」

「味つけが薄過ぎるんだよ」

「望って高血圧になって、駒持ったまま突然死してそうだよね」

「……不吉なこと言うなよ」

「あ、否定しない!」

「『……で、では、結婚した俺は読みの正確性が失われたのでしょうか!?』
『はははは! ご心配には及びません。元々ないものが失われることはありませんから』」

「もういいからさっさと食えよ、川奈。食って帰れ」

川奈さんはスープボウルを持ち上げ、強ばった表情をする。

「検討してみたけど、オススメできる棋士はいないな」

“検討”を終えた川奈さんの喉を、ごくんと大きなものが通り過ぎて行った。
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