センチメンタル・ファンファーレ
「“彼氏”が来たみたいだよ」
タクシーがスピードを落としてマンションの前にやってきた。
それを見て、川奈さんは階段へと向かう。
「あ、そうだ! 弥哉ちゃん、“彼氏”に『あれは不詰めだよ』って言っておいて」
「『フヅメ』?」
「いってらっしゃい」
満面の笑みを残して川奈さんは背を向けた。
そのくたくたのシャツが見えなくなるのと同時に、
「お待たせ」
と縁くんがやってきた。
「今の川奈さん?」
先日買ったスーツは高いものではなかったけれど、サイズがぴったり合っていて値段以上に見える。
クレリックシャツと濃紺のネクタイという珍しくない取り合わせも、まるでお手本のようだった。
「うん。縁くんに『あれはフヅメだよ』って」
縁くんは何度かまばたきをして考えたあと、
「ああ、あれ! え、嘘。不詰め?」
と言って、タクシーへと歩き出した。
何事か悩むその背中を私も追う。
「そう言ってた」
「はあー、不詰めか」
「何の話?」
タクシーに乗って行き先を告げてから、縁くんは答えた。
「しばらく前から解けない詰将棋があって、そのことだと思う。深瀬さんに話したんだけど、川奈さんにも伝わったんだな」
「『不詰め』って何?」
「詰まないってこと。詰将棋は当然詰むように作ってあるんだけど、不完全作だと詰まないこともあるんだ」
「それって、AIでわからないの?」
「詰将棋は、何日かかっても自分で考えないと意味ない」
「“不詰め”でも?」
「この場合、“不詰め”はひとつの答えだよね。『わからない』じゃなくて、『詰まない』って答え出したんだから。帰ってから問題確認してみないとな」
「帰ってから確認する」と言ったくせに、縁くんは腕組みをして考えに耽っている。
お兄ちゃんもよくこんな感じなので、私は車窓から夕暮れの街を眺めた。
車内の冷房がきつくて、ベタベタの肌を冷気が刺す。
ストールを大きく広げ直して、なるべく身体全体を包むようにした。
「思った以上によく似合ってる」
詰将棋に没頭していたはずの縁くんは、いつの間にかこちらを向いていた。
距離を取るようにドアにもたれ、全身を眺める。
「かわいい」
「ありがとう」
「川奈さんは何か言ってた?」
「特に、何も」
「あはは。ダメだな、あの人」