センチメンタル・ファンファーレ
今度こそ、と大きく息を吸って、結局消え入りそうな小さな声で言った。
「私、たぶん、他に好きな人がいる」
私たちの間に、はっきりしたものなんて何もない。
曖昧な、説明すると大事なものがこぼれてしまうようなものしかない。
だけど、そこに大事なものが含まれていることはわかっている。
「往生際悪いな」
「………………」
「サクッと認めれば?」
「やだ」
「なんで?」
「だって、何考えてるかわかんないでしょ、あの人」
嫌われてはいない。
だけど、差し入れをやめたら、ゴミを出す時間をもう少し早めたら、引っ越したら、かんたんに会わなくなる人だ。
“他人”と“特別な人”の境目を、ずっとフラフラ綱渡りしている。
「でもまあ、ちゃんと言ってくれてよかったよ」
「ここまで付き合わせてごめんなさい」
「遅いよ」
「ごめんなさい」
「せめて昨日。でなきゃ、さっきタクシー乗る前」
「ごめんなさい!」
「だけど、弥哉ちゃんが恋も自覚できないバカじゃなくて本当によかった」
「言い方!」
縁くんはこれまで見たことのない、やさしい眼差しで私を見ていた。
「人選は悪くないと思う」
「なんで?」
「自分で考えて。一回ちゃんとあの人の将棋と向き合ってみればいい」
腕時計を一度見て、縁くんは人の流れを目で追う。
「それはそれとして、恋人代理は続行しても構わないと思うんだけど、本当にやめる?」
「やめる。なんか不誠実だもん。ごめんなさい」
「そう。わかった」
「あ、お金はちゃんとお支払いします」
「え? いいの?」
「うん。ここまで来てもらったんだから」
お財布から一万八千円出して「お釣はいりません」と差し出すと、縁くんはその中から一万円だけピッと抜いた。
「これで十分」
「え? いいの?」
今度は私が聞き返すと、縁くんは「じゃあ、もう少しだけ」と言って、さっとかがんだ。
左頬に何とも言えないぬくもりを感じて、反射的に手で拭う。
「シワ!」
縁くんが私の眉間を指先でグリグリと押した。
「キスしてその反応は傷つくー」
「ごめんなさい。生理現象です」
「あ~あ、傷ついた~」
歌うようにそう言って、私の横を通り過ぎていく。
「タクシー代は?」
「俺ひとりなら電車で帰るからいらないよ。それより弥哉ちゃん、頑張ってね」
「……何を?」
「今夜みんなから哀れみの視線を向けられることも、恋も。あ、『不詰め』って弥哉ちゃんのことだったのかな?」
首を傾げている私の頭を縁くんはポンポンと撫でた。
「弥哉ちゃんのこと、詰まし損ねたって思われたなら心外。遠慮してあげたのに」
「遠慮……してた?」
「俺が本気出したら、あんなもんじゃない」
「でも、どうせ本気にならないでしょ?」
縁くんは不敵に笑って私の背中を押す。
「ほら、時間ないよ。行ってらっしゃい」
8cmヒールがカッカッと鳴る。
「行ってきます。白取さん、ありがとうございました!」
笑顔で手を振る白取さんに見送られて、私は自動ドアを抜けた。
「私、たぶん、他に好きな人がいる」
私たちの間に、はっきりしたものなんて何もない。
曖昧な、説明すると大事なものがこぼれてしまうようなものしかない。
だけど、そこに大事なものが含まれていることはわかっている。
「往生際悪いな」
「………………」
「サクッと認めれば?」
「やだ」
「なんで?」
「だって、何考えてるかわかんないでしょ、あの人」
嫌われてはいない。
だけど、差し入れをやめたら、ゴミを出す時間をもう少し早めたら、引っ越したら、かんたんに会わなくなる人だ。
“他人”と“特別な人”の境目を、ずっとフラフラ綱渡りしている。
「でもまあ、ちゃんと言ってくれてよかったよ」
「ここまで付き合わせてごめんなさい」
「遅いよ」
「ごめんなさい」
「せめて昨日。でなきゃ、さっきタクシー乗る前」
「ごめんなさい!」
「だけど、弥哉ちゃんが恋も自覚できないバカじゃなくて本当によかった」
「言い方!」
縁くんはこれまで見たことのない、やさしい眼差しで私を見ていた。
「人選は悪くないと思う」
「なんで?」
「自分で考えて。一回ちゃんとあの人の将棋と向き合ってみればいい」
腕時計を一度見て、縁くんは人の流れを目で追う。
「それはそれとして、恋人代理は続行しても構わないと思うんだけど、本当にやめる?」
「やめる。なんか不誠実だもん。ごめんなさい」
「そう。わかった」
「あ、お金はちゃんとお支払いします」
「え? いいの?」
「うん。ここまで来てもらったんだから」
お財布から一万八千円出して「お釣はいりません」と差し出すと、縁くんはその中から一万円だけピッと抜いた。
「これで十分」
「え? いいの?」
今度は私が聞き返すと、縁くんは「じゃあ、もう少しだけ」と言って、さっとかがんだ。
左頬に何とも言えないぬくもりを感じて、反射的に手で拭う。
「シワ!」
縁くんが私の眉間を指先でグリグリと押した。
「キスしてその反応は傷つくー」
「ごめんなさい。生理現象です」
「あ~あ、傷ついた~」
歌うようにそう言って、私の横を通り過ぎていく。
「タクシー代は?」
「俺ひとりなら電車で帰るからいらないよ。それより弥哉ちゃん、頑張ってね」
「……何を?」
「今夜みんなから哀れみの視線を向けられることも、恋も。あ、『不詰め』って弥哉ちゃんのことだったのかな?」
首を傾げている私の頭を縁くんはポンポンと撫でた。
「弥哉ちゃんのこと、詰まし損ねたって思われたなら心外。遠慮してあげたのに」
「遠慮……してた?」
「俺が本気出したら、あんなもんじゃない」
「でも、どうせ本気にならないでしょ?」
縁くんは不敵に笑って私の背中を押す。
「ほら、時間ないよ。行ってらっしゃい」
8cmヒールがカッカッと鳴る。
「行ってきます。白取さん、ありがとうございました!」
笑顔で手を振る白取さんに見送られて、私は自動ドアを抜けた。