センチメンタル・ファンファーレ
▲11手 アナザーバージョン
土曜日の朝は、喧騒も平日とは少し違う。
普段は出て行く車が動かず、ファミリーカーがいそいそと出発して行った。
ランドセルの音も革靴の音もしない。
私の足元でもヒールではなく、サンダルのゴム底が擦れる音がしていた。
その中で、川奈さんの家のチャイムは、いつもと変わらないのんびりしたものに聞こえる。
予想通りすぐには反応がなかったので、少し待ってもう一度押した。
やはり出てこない。
ドアに近づいて中の音に耳を澄ませたけれど、どこかの犬の鳴き声の方が大きいくらいに、室内は静かだった。
まだ寝ているんだったら、起こした方がいいかな、と思ってチャイムを連打していると、
「おはよう。チャイム壊れるよ」
と階段の方から川奈さんがやってきた。
くたくたのTシャツは変わらないけれど、下はジャージのハーフパンツを穿いている。
「もしかして……ランニング?」
川奈さんはタオルで顔を隠すようにして、汗を拭う。
「うん。まあ」
「前にベランダから川奈さんみたいな人が見えたけど、走ってたから別人だと思ってた」
「それ、多分俺」
将棋は体力勝負と言われている。
タイトル戦を除くと、一番持ち時間が長いのは順位戦(名人への挑戦権を争う)で一人六時間。
将棋は読みの精度が重要だけど、疲れてくると当然それは落ちる。
体力をつけ、疲れにくい身体を作っておくことは、勝つために大切なことなのだ。
「なんで急に」
「それはもちろん勝ちたいからだよ」
返ってきたのはシンプルで強い言葉だった。
「それから、太っちゃうと正座がきつくなるからね」
川奈さんの笑顔は、私の手元に向いていた。
「ごめんなさい。考えが足りなくて」
紙袋をグシャッと抱いて、急ぎ足で川奈さんの横を通り過ぎようとすると、
「ああ、ごめん! そういう意味じゃない!」
と腕を掴まれる。
すぐそばに川奈さんの真剣な目があった。
対局の日の目だな、と思った。
いつもならくるくる光を変える目の色が、しずかに凪いでいる。
何も言えず、ただその視線に囚われていたら、私の腕を掴んでいた手がほどかれて紙袋を抜き取った。
「いただきます」
しわしわになった袋を顔に近づけて「いい匂い」と微笑む。