センチメンタル・ファンファーレ



『ご利用ありがとうございました。またお越しください』
笑顔で手を振るイラストを見上げてため息をついたら、真っ白な息がその笑顔にかかった。

迷った。
コテージと温泉施設との位置関係を把握していなかった私は、灯りを頼りに温泉施設を探し出したのだけど、いざ帰ろうと思ったら、コテージの場所がわからない。
コンタクトを外したことも災いして、だいたいこっちだったかな、という勘もまったく当たっていなかった。

立て看板が見えたので、案内図かもしれないと近づいたら、笑顔で『帰れ』と言われたところだった。
とりあえず、温泉まで戻って、そこから建物を探そう。

見えるのは、暗い空と同化しそうな暗い森と、車一台通らないアスファルト道路。
さすがにこの先にコテージはない。

「弥哉ちゃん、何してるの?」

暗くても、視界が曖昧でも、もうこの人が誰かなんてすぐにわかってしまうのだ。

「……お散歩」

「迷った?」

「お散歩!」

「コテージあっちだよ」

先導するように川奈さんが歩き出すので、そのあとについていく。

「川奈さんは何してるの?」

肩に引っ掛けたバッグからは、雑に畳まれたタオルが覗いている。
お風呂上がりなのはわかるけれど、コテージは反対側らしいのに。

「小多田さんも祐太郎さんもベロベロに酔っちゃってね。子どもたちをお風呂に連れて行く人がいなくなったんだよ」

「佐知さんと真菜花ちゃんは?」

「男心わかってないな。小二男子に女湯は屈辱だよ」

なぜか勝ち誇ったように川奈さんは笑った。

「それで、川奈さんが三人を入れたの?」

「俺と深瀬さんで。入れたって言うか、一緒に入っただけだけどね。あ、『背中はできない』っていうから洗ってあげた」

お兄ちゃんと川奈さんがチビッ子三人とお風呂。
覗いてみたい。
もちろん、いやらしい意味じゃなくて。

「風呂から出て『あ、弥哉ちゃんがいるな』って見てたら、なんか変な方向に行ったから」

「チビッ子たちは?」

「深瀬さんに託した」

すんなり言うことを聞いたとは思えないお兄ちゃんを、どう言いくるめたのだろう。

「子どもは慣れてるの?」

「研究会があるから、月一で小多田さんの家に行ってるんだ。だからいっくんとニノはよく知ってる。それに、将棋教室の合宿にも何回か参加したことある」

将棋教室の中には、学校の長期休暇の時期に泊まりがけの合宿を開くところがある。
それには普段指導している講師だけでなく、奨励会員やプロ棋士も指導にあたることがあって、当然食事も入浴も一緒だ。

「子ども相手って大変?」

「そうでもないよ。合宿に参加するのって大抵高学年だし、一応プロとして敬意を持ってくれてるから、親とか学校の先生よりむしろ素直に言うこと聞いてくれる」

将棋を志す子の目に、川奈さんやお兄ちゃんはどう映るのだろう。
一番の長所が、私にはわからない。

「楽しそうだったね、将棋」

何千局何万局と指しているはずなのに、あれだけ楽しくできるものなんだ。
きっと彼らは、生涯将棋を指すのだろう。

「楽しかったよ。負けちゃったけどね」

「負けたの?」

「あの人たち、大人げないと思わない?」

「川奈さんがそれ言うの?」

煌々と灯りの漏れる温泉施設まで戻り、その裏手へと足を進める。
カランと洗面器の音が聞こえた。
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