センチメンタル・ファンファーレ
◇
『ご利用ありがとうございました。またお越しください』
笑顔で手を振るイラストを見上げてため息をついたら、真っ白な息がその笑顔にかかった。
迷った。
コテージと温泉施設との位置関係を把握していなかった私は、灯りを頼りに温泉施設を探し出したのだけど、いざ帰ろうと思ったら、コテージの場所がわからない。
コンタクトを外したことも災いして、だいたいこっちだったかな、という勘もまったく当たっていなかった。
立て看板が見えたので、案内図かもしれないと近づいたら、笑顔で『帰れ』と言われたところだった。
とりあえず、温泉まで戻って、そこから建物を探そう。
見えるのは、暗い空と同化しそうな暗い森と、車一台通らないアスファルト道路。
さすがにこの先にコテージはない。
「弥哉ちゃん、何してるの?」
暗くても、視界が曖昧でも、もうこの人が誰かなんてすぐにわかってしまうのだ。
「……お散歩」
「迷った?」
「お散歩!」
「コテージあっちだよ」
先導するように川奈さんが歩き出すので、そのあとについていく。
「川奈さんは何してるの?」
肩に引っ掛けたバッグからは、雑に畳まれたタオルが覗いている。
お風呂上がりなのはわかるけれど、コテージは反対側らしいのに。
「小多田さんも祐太郎さんもベロベロに酔っちゃってね。子どもたちをお風呂に連れて行く人がいなくなったんだよ」
「佐知さんと真菜花ちゃんは?」
「男心わかってないな。小二男子に女湯は屈辱だよ」
なぜか勝ち誇ったように川奈さんは笑った。
「それで、川奈さんが三人を入れたの?」
「俺と深瀬さんで。入れたって言うか、一緒に入っただけだけどね。あ、『背中はできない』っていうから洗ってあげた」
お兄ちゃんと川奈さんがチビッ子三人とお風呂。
覗いてみたい。
もちろん、いやらしい意味じゃなくて。
「風呂から出て『あ、弥哉ちゃんがいるな』って見てたら、なんか変な方向に行ったから」
「チビッ子たちは?」
「深瀬さんに託した」
すんなり言うことを聞いたとは思えないお兄ちゃんを、どう言いくるめたのだろう。
「子どもは慣れてるの?」
「研究会があるから、月一で小多田さんの家に行ってるんだ。だからいっくんとニノはよく知ってる。それに、将棋教室の合宿にも何回か参加したことある」
将棋教室の中には、学校の長期休暇の時期に泊まりがけの合宿を開くところがある。
それには普段指導している講師だけでなく、奨励会員やプロ棋士も指導にあたることがあって、当然食事も入浴も一緒だ。
「子ども相手って大変?」
「そうでもないよ。合宿に参加するのって大抵高学年だし、一応プロとして敬意を持ってくれてるから、親とか学校の先生よりむしろ素直に言うこと聞いてくれる」
将棋を志す子の目に、川奈さんやお兄ちゃんはどう映るのだろう。
一番の長所が、私にはわからない。
「楽しそうだったね、将棋」
何千局何万局と指しているはずなのに、あれだけ楽しくできるものなんだ。
きっと彼らは、生涯将棋を指すのだろう。
「楽しかったよ。負けちゃったけどね」
「負けたの?」
「あの人たち、大人げないと思わない?」
「川奈さんがそれ言うの?」
煌々と灯りの漏れる温泉施設まで戻り、その裏手へと足を進める。
カランと洗面器の音が聞こえた。
『ご利用ありがとうございました。またお越しください』
笑顔で手を振るイラストを見上げてため息をついたら、真っ白な息がその笑顔にかかった。
迷った。
コテージと温泉施設との位置関係を把握していなかった私は、灯りを頼りに温泉施設を探し出したのだけど、いざ帰ろうと思ったら、コテージの場所がわからない。
コンタクトを外したことも災いして、だいたいこっちだったかな、という勘もまったく当たっていなかった。
立て看板が見えたので、案内図かもしれないと近づいたら、笑顔で『帰れ』と言われたところだった。
とりあえず、温泉まで戻って、そこから建物を探そう。
見えるのは、暗い空と同化しそうな暗い森と、車一台通らないアスファルト道路。
さすがにこの先にコテージはない。
「弥哉ちゃん、何してるの?」
暗くても、視界が曖昧でも、もうこの人が誰かなんてすぐにわかってしまうのだ。
「……お散歩」
「迷った?」
「お散歩!」
「コテージあっちだよ」
先導するように川奈さんが歩き出すので、そのあとについていく。
「川奈さんは何してるの?」
肩に引っ掛けたバッグからは、雑に畳まれたタオルが覗いている。
お風呂上がりなのはわかるけれど、コテージは反対側らしいのに。
「小多田さんも祐太郎さんもベロベロに酔っちゃってね。子どもたちをお風呂に連れて行く人がいなくなったんだよ」
「佐知さんと真菜花ちゃんは?」
「男心わかってないな。小二男子に女湯は屈辱だよ」
なぜか勝ち誇ったように川奈さんは笑った。
「それで、川奈さんが三人を入れたの?」
「俺と深瀬さんで。入れたって言うか、一緒に入っただけだけどね。あ、『背中はできない』っていうから洗ってあげた」
お兄ちゃんと川奈さんがチビッ子三人とお風呂。
覗いてみたい。
もちろん、いやらしい意味じゃなくて。
「風呂から出て『あ、弥哉ちゃんがいるな』って見てたら、なんか変な方向に行ったから」
「チビッ子たちは?」
「深瀬さんに託した」
すんなり言うことを聞いたとは思えないお兄ちゃんを、どう言いくるめたのだろう。
「子どもは慣れてるの?」
「研究会があるから、月一で小多田さんの家に行ってるんだ。だからいっくんとニノはよく知ってる。それに、将棋教室の合宿にも何回か参加したことある」
将棋教室の中には、学校の長期休暇の時期に泊まりがけの合宿を開くところがある。
それには普段指導している講師だけでなく、奨励会員やプロ棋士も指導にあたることがあって、当然食事も入浴も一緒だ。
「子ども相手って大変?」
「そうでもないよ。合宿に参加するのって大抵高学年だし、一応プロとして敬意を持ってくれてるから、親とか学校の先生よりむしろ素直に言うこと聞いてくれる」
将棋を志す子の目に、川奈さんやお兄ちゃんはどう映るのだろう。
一番の長所が、私にはわからない。
「楽しそうだったね、将棋」
何千局何万局と指しているはずなのに、あれだけ楽しくできるものなんだ。
きっと彼らは、生涯将棋を指すのだろう。
「楽しかったよ。負けちゃったけどね」
「負けたの?」
「あの人たち、大人げないと思わない?」
「川奈さんがそれ言うの?」
煌々と灯りの漏れる温泉施設まで戻り、その裏手へと足を進める。
カランと洗面器の音が聞こえた。