センチメンタル・ファンファーレ
「弥哉ちゃん」
風はなく、山々も寝静まったように見える。
湿ったアスファルトをスニーカーが踏む音もさやかで、川奈さんの声はよく聞こえた。
「俺、頑張るよ。タイトルを……獲りに、いく」
ひとつひとつ言い聞かせるように、川奈さんは言い切った。
「どこかね、逃げてた。負けたときの言い訳をたくさん用意して。『勉強しなかったからなあ』『体調悪かったからなあ』って。俺にできることなんて将棋しかないのに、必死になってなかった」
誰だってダメな自分と向き合うのは怖い。
怖いから「私ってダメなんだ」って自分で言って防御線を張る。
自分で認めたフリをすれば、傷は浅くて済むから。
川奈さんはそこに踏み込んだ。
傷口を開く痛々しい感触が伝わるようだった。
「でも、頑張る。本気で頑張る」
身体に染み込ませるように、繰り越していた。
順位戦は現在三勝二敗。
竜王戦は決勝トーナメントの初戦敗退。
王将戦は決勝リーグ入りならず。
叡王戦は段位別予選で敗退。
一番残っているのは、棋王戦の挑戦者決定トーナメントベスト8と、神宮寺リゾート杯の二次予選だ。
「うん。見てるよ」
少し前を歩く川奈さんのスニーカーを見て言った。
「将棋は見てもわかんないんだけど、でも、見てる。川奈さんを見てる」
太陽が昇っては沈む。
朝が来て、夜が来る。
梅雨が明けて夏になって、夏が終わって秋になって、秋もどんどん深まって。
時間が経つほど、どんどん好きになる。
季節が進むほど、どんどん気持ちが強くなる。
いつの間にか、ずっと川奈さんだけを見ていた。
靴の踵がわずかに折れていることはわかるけれど、川奈さんがどんな反応をしたのかはわからなかった。
少し先にあったその靴が戻ってきて、私の靴に触れるくらい近づいた直後、「あーあ、見つかっちゃった」というつぶやきが聞こえた。
「おい! 何やってんだよ!」
ご立腹の兄は、このしずかな秋の山には似つかわしくない。
靴と靴の距離がまた開く。
「あ、深瀬さん、チビッ子三人ちゃんと連れてってくれた?」
「当たり前だろ。今みんなで花火してる。それより、なんでこんなところにいるんだよ」
大人になれば、こういう干渉の鬱陶しさからは解放されるのだと思っていた。
高校生のとき、「図書館で勉強していた」と嘘をついたときより、演技力だけは上達したけれど。
「道に迷って出口の方まで行っちゃったの。それで川奈さんが道を教えてくれただけ」
「だったら、温泉の前を真っ直ぐ来ればすぐコテージだろ。なんでこんな遠回りしてんの?」
ジロッと睨む視線を、川奈さんは弾む足取りでかわした。
「ああ、そうだっけ? 俺も迷っちゃったみたい。それより早く戻って花火しようよ」
先を行く川奈さんを追わず、お兄ちゃんは私の隣に並んだ。
「弥哉、気をつけろよ」
やけに過保護なお兄ちゃんにイラッとしたけれど、これ以上詮索されたくないから我慢した。
火薬の匂いと煙が漂ってきて、さっきまでのしずけさが夢だったように騒がしい。
「弥哉さーん、おかえりなさーい。線香花火やりませんか?」
虹湖さんから線香花火を受け取って、ろうそくの火に入れた。
「わたし、線香花火好きだなあ」
虹湖さんがしみじみと言うので、私も花火に振動を与えないようにしつつ、そっと同意した。
「そうですね。なんだかんだで一番攻撃力高そう」
この火の玉を、お兄ちゃんの足に落としてやりたい、と心から思っていた。