センチメンタル・ファンファーレ
スタンドに立て掛けたタブレットでは、この挑戦者決定戦の中継が流れていて、女流棋士が棋戦の仕組みを説明している。
そして、対局開始の十五分前に、あたたかそうなコートに身を包んだまま川奈さんは対局室に入ってきた。
黒っぽいカジュアルなコートは、高さのある襟が首をすっぽり覆っている。
すでに待機していた記録係と観戦記者に「おはようございます」と言ったようだけど、内側についているファーに吸収されて、モゴモゴとしか聞こえなかった。
その動作ひとつひとつを凝視して、地獄だな、と思う。
この先、絶対もっと深みにはまる。
どんな欠点も愛しく思う。
どんどん堕ちて這い上がれないなんて地獄と同じだ。
コートをぐるぐるっと丸めるように畳んで、コンビニのビニール袋からお水とお茶を出す。
そして、私が差し入れたひと口饅頭の袋をその隣に並べた。
対局の中継を見るたび、知らない人を見ている気持ちになる。
いつも顔を歪めたり笑ったり、表情豊かだから、私の前で真顔なんてほとんど見せたことがない。
しかも、真顔と言っても表情がないのではなく、内側の熱が溢れすぎて表情を奪っているような激しい沈黙だった。
『川奈六段の印象はいかがですか?』
棚原名人が入室してふたりが駒を並べる間、聞き手の女流棋士がそれぞれの経歴を紹介し、解説の棋士にその印象を聞いた。
『川奈六段は受けを苦にしないタイプで、比較的力戦系が得意な印象です』
『先生は普段交流とかあるんですか?』
『何回か研究会で一緒になったことがあります。普段はきさくな人ですけどね、対局になるとガラッと変わりますよね』
『棋士はそういう方、結構多いですね』
『川奈六段は特に闘志というか気迫を全面に出すタイプという印象です』
パシッ、パシッ、と川奈さんは駒音高く歩を並べている。
棚原名人はほとんど音をさせないから、対局室ではよりその差が鮮明に聞こえているだろう。
振り駒(歩を五枚手の中で振ってから投げ、「歩」と「と金」の出た枚数で先後を決める)が行われ、歩が四枚出て棚原名人が先手番と決まった。
対局開始までの数分、お互い盤や手元に視線を落として目を合わせない。この時間は戦型の確認をしていることが多いという。
後手の川奈さんも、予想される戦型に対応する準備をしているのだろう。
『定刻になりましたので、棚原先生の先手番でお願いします』
『お願いします』
『お願いします』
記録係の合図で、一斉に礼をする。
棚原名人はひと呼吸置いて、するりと飛車先の歩を進めた。
迷いも揺らぎもない。真っ白な糸をピンと張ったような姿だった。
対する川奈さんはじっと盤に視線を落としたまま動かない。
悩んでいるのではなく、自らの内側と対話しているようだった。
ゆっくり息を吸い込んでから、眠っていた駒を起こすかのように、そっと持ち上げる。
△8四歩
宣戦布告する、強い手つきだった。