センチメンタル・ファンファーレ
△2手 バースデープレゼント



分け入っても分け入っても湿気。
どよどよと澱んだ空気がまとわりついて、肌が常にしめっているように感じる。
どんな厳重な警備もすり抜ける湿気は、コピー用紙を腕に張り付かせ、洗濯物に関しては「何をもって乾いたと認定するか」の判断を迷わせて、私たちを苦しめる。

「ダメだな……」

つぶやきは電車のブレーキ音と車内アナウンスに掻き消された。
梅雨明けまでまだ遠い車内は、湿気と汗で淀んだ空気に満ちている。
その中にまたひとつため息を混ぜた。

今日川奈さんは、王将戦の一次予選に臨んでいるらしい。

将棋の対局の多くは中継がなく、あってもアプリ(有料)で盤面とその解説を読める程度のもの。
対局の様子が観られるのはタイトル戦や注目対局など、ごく限られたものだけだ。

しかも王将戦は無料の中継がなく、専門チャンネルにお金を払って観るしかない。
以前お兄ちゃんが一般棋戦でそのチャンネルに出ることになったときは、チケットを買ってその対局だけ視聴した(すぐ負けたから、その一回だけ)。

川奈さんの対局も中継はなく、アプリの棋譜中継さえない。
つまり、事実上の非公開対局だった。

どこかで情報を拾ったファンがSNSに投稿してくれていないかと期待したけれど、「川奈」「川奈結」「川奈六段」「川奈 竹藤」どんな名前で検索しても、対戦相手の名前と一緒に検索してもわからない。

また電車が大きく揺れて発車した。
時刻は六時二十三分。
駅を抜けると、まだもたもたしている六月の太陽が車内に差し込み、目の前の男性のワイシャツもオレンジ色に染まった。


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