センチメンタル・ファンファーレ

棚原名人は穏やかな人柄とは違い、激しい将棋を好むらしい。
今回採用した角換わりという戦型は最初にお互い角を手持ちにするもので、激しくなりやすい。
いつその角が打ち込まれるかわからないから、序盤から気の抜けない戦いになるそうだ。

ところが、棚原名人はせっかく手持ちにした角を早々に自陣に打った。
これで角の打ち込みを警戒する必要がなくなり、おだやかな進行となった、と解説の棋士は言っている。

『後手だけが角を手持ちにしているので、形勢に差が出ていてもおかしくないのですが、先手の角が攻守によく利いてるんですよね』

『では形勢としては……』

『圧倒的に互角です』

動きの少ない棚原名人は、時折お水を口に含むくらいで、ひたすらしずかに座っている。

ストン、ストン、と指す棚原名人の駒音は、「正解」「正解」と聞こえる。
威圧的ではないのに、私ならペナペナに潰されそうな迫力があった。

対する川奈さんは脇息にもたれたり、ため息をついたり、今も腕を組んで宙を見上げ、リズムを取るように小さく身体を揺らしていた。

『私ならここから穴熊に組みたいですけど、川奈六段はやらないんじゃないかな』

『そうなんですか?』

『川奈六段は攻めをかわすのが得意ですから。陣形もそれなりに整ってるし、先手の好きに攻めさせるか、千日手を狙って手待ちするかもしれないですね』

千日手というのは、持ち駒も合わせて同じ局面が四度現れること。
そのままでは千日やっていても決着がつかないので、先後を入れ換えて指し直しとなる。

将棋は先手の方が戦型を決めることが多く、ペースを握りやすい。
従って、後手番はわざと同じ手を繰り返して、千日手を狙う場合がある。

川奈さんの動きが止まった。
今度は狙いを定めるように盤をじっと見て、ゆっくりと歩を動かした。

『△4四歩、と指されました』

『後手から打開(千日手回避)しましたね』

決まった譜面をなぞるだけ、とでも言うように迷いなく指していた棚原名人が、ここでピタッと手を止めた。
そのまま昼食休憩となる。

「はあ、気持ち悪……」

朝は一応トーストを食べたけれど、お腹は全然空かなかった。
飲みかけの甘いコーヒーも途中から飲めなくなって、テーブルの隅で冷たくなっている。

こんなにストレスのかかることを、川奈さんもお兄ちゃんもずーーーーっとやっているのか。
この合間に蕎麦と親子丼のセットなんか食べてる川奈さんは、神経がバカになってるんじゃないかと思う。
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