センチメンタル・ファンファーレ
棚原名人は昼食休憩明けも少し考えていたけれど、自陣深くに潜っていた角を盤の中央まで上がらせた。
そこから将棋は一気に激しくなり、駒がくるくる交換されていく。
『後手はここで何か技をかける手を探しているところですね』
『先生、ちなみに予想手は?』
『うーーーん、第一感は△4五歩と突く手なんですけど、』
『▲6四角、』
『△4六銀打、』
大盤で女流棋士と棋士が駒をパタパタ進めている間、川奈さんはまた腕を組んで宙を見上げ、身体を揺らしてリズムを取っている。
『角を打つ手はありませんか?』
『△8七角打ちはあるかもしれませんね。……けど、ちょっと無理気味かなあ』
棋士の言葉を受けて、女流棋士が8七に角を打ったとき、対局室からパシンと大きな駒音がした。
川奈さんが2八に角を打ったのだ。
『△2八角打でした』
『△2八角は全然考えてなかったな。……えーっと、▲3七金で━━━━━ 』
「あーーーー、もう、わかんない!」
川奈さんが順調に攻める手が続きそうだ、と解説の棋士は言ったけれど、だからと言って後手有利とは言わなかった。
いいのか悪いのか、はっきりしない時間が長くなり、私の胃はますます悲鳴をあげる。
お兄ちゃんに聞けば、もっとはっきりした言い方で教えてくれるのだろうけど、お兄ちゃんに聞くということは、いろんなことを認めて覚悟しなければならない。
川奈さんが棚原名人の玉周辺をどんどん攻めていく。
ドンッと力強く飛車が竜に成った。
守り駒を剥がされた先手玉はとても寒々しく、矢の一本でも飛んで来たらすぐに詰んでしまいそうに見えるけれど、棚原名人は堂々と玉を上部へと上がらせた。
『こういう玉が薄くてヒラヒラ逃げる将棋って、むしろ川奈六段っぽいですけどね』
解説の棋士は苦笑いを浮かべながら、大きな王将をグイッとひとつ上のマスに上げた。
『川奈六段は受けが得意ということですが……』
『玉がTシャツにハーフパンツみたいな軽装で、戦場をフラフラ移動するようなイメージです』
『ふふふふ。それは危ないですね』
『それで反射神経だけで攻撃をかわしてる感じなんですよね』
知り合った頃のくたくたTシャツ姿の川奈さんが、盤上で「ぎゃー!」って逃げてる姿が目に浮かぶ。
『でもここ最近はずいぶんアグレッシブに動くな、と思ってます。受けが強いのは変わらないけど、積極的に攻めますよね。……でも、今日はちょっと難しいかなあ』