センチメンタル・ファンファーレ
順調そうに見えた川奈さんの攻めは、棚原名人の好手で途切れたらしい。
今は逆に棚原名人の攻めに翻弄されているように見えた。
リズムを取りながら考え込んでいた川奈さんは、ため息と同時に「ああー、そっか……」と苦しそうに吐き出した。
玉の周りの金銀が一枚、また一枚と取られて、先手の駒台の上に並んでいく。
先手陣で睨みを利かせていた竜を呼び戻して守りを固めるけれど、棚原名人は竜には目もくれず、ストンと桂馬を打ち込んだ。
『この桂打ちは激痛ですね。積極的に攻めたんですけど、先手の玉が上がった手が好手でした。こうなってみると△2八角打が空振りしましたね』
説明されなくても、川奈さんの形勢が悪いことはわかった。
苦しそうに頭をかきむしったり、ため息をついたり、動きが落ち着かない。
棋士の中には相手を惑わすために、わざと劣勢を演じる人もいるらしいけれど、川奈さんはそんな器用な人じゃない。
川奈さんの苦しむ姿は棚原名人にも見えているはずなのに、初手を指したときと寸分違わぬスタイルでストン、ストン、と駒を進めていく。
それは強度と透明度の高い珠のような姿で、なにものにも汚されず、傷つけられもせず、ずっと高みにありつづけるかに見える。
川奈さんはもがいて苦しんで抗っていた。
名人の鋭い牙が、ガツガツ切り裂きに来ても、擦り傷をたくさん作りながら決定打を許さない。
『真骨頂ですね』
解説も認める、驚異の粘りだった。
ガツンと川奈さんが打った歩を見て、棚原名人が長考に沈む。
「川奈くん勝てそう?」
「きゃあああああ!」
文字通り飛び上がって振り返ると、ちなちゃんも驚いた顔で固まっていた。
「……びっっっくりしたあ」
「それ、私の方だよ。いつ帰ってたの?」
「玄関で『ただいまー』って言ったよ。気づかなかったの?」
どれだけ見入っていたの? と言われたようで、私は返事をしなかった。
「それで、勝てそうなの?」
「……負けるかも」
「そうなんだ」
軽い返事でちなちゃんはストッキングを脱ぎ、ランドリーボックスに放り込む。
これに勝てれば棋王挑戦者になる、と伝えたところで、反応は変わらないだろう。
川奈さんにとって大一番でも、たいていの人にとってはささいなことだ。