センチメンタル・ファンファーレ

「今日のためにわざわざ休んだの?」

「代休だよ。先々週の土曜日、取引先のイベントに参加したから」

「だから、その代休をわざわざ今日で申請したんでしょ?」

「…………………」

休んだくせに、掃除も洗濯もしていない。
夕食の支度どころか買い物もしていない。
からかってはくるけれど、ちなちゃんは文句も言わず、髪の毛をまとめてキッチンに立ってくれた。

「キャンプのとき、望が言ってたんだけどね、」

ちなちゃんは不器用そうにごぼうをささがきにしている。

「川奈くんって、将棋だけは格好いいんだって」

「そうなの?」

「正確に言うと『他はどこを取っても人並み以下だけど、将棋だけは少しマシなヤツだ』って言ってたな」

それは、お兄ちゃんからすると最大の賛辞だろう。
将棋を褒めるということは、人柄を褒めることにも等しい。

小学生のときの初手合で、お兄ちゃんは川奈さんに負けた。
川奈さんの玉は自らお兄ちゃんを追い詰めたという。
戦場を軽装でフラフラして、自ら戦いにも参戦していく川奈玉。
それはまるで川奈さんそのもののようだ。
今川奈さんの玉は深手を負って、盤の端まで追い詰められているけれど、それでも上部への逃げ道を模索している。

「『弥哉は川奈を全然わかってない』」

「将棋のこと言われても困るよ」

「まあまあ、酔っ払いの言うことだから」

キッチンからはお醤油の甘辛い匂いが漂ってきた。
ほとんど何も食べていない胃に、少しだけ元気が戻る。

「望にとって川奈くんはちょっと特別な存在なんでしょ。弥哉のこと、素直に応援してくれないと思うよ。はい! できた!」

ハイスピードで出来上がった夕食は、ごぼうと鶏肉のチャーハン、一品だけ。
でも今日だけは文句を言わず、インスタントのワカメスープにお湯を注ぐ。

「いただきます」

川奈さんが打ち込んだ楔とも言える歩を、棚原名人はやさしい手つきで取る。
そして、ストンと馬を置いた。

『……負けました』

ささやくように川奈さんは投了を告げた。
一斉に記者が入ってきて、シャッター音でいっぱいになる。
対局中より丸みのある雰囲気になった名人は、おだやかな表情でインタビューに答えていた。

川奈さんもインタビューを受けたけれど、言葉少なに『力不足でした。残念です』というだけだった。

『インタビューは以上です。ありがとうございました。では、感想戦に移ってください』

途中、泣き出すのではないかとさえ思った顔に、今は笑顔が浮かんでいる。

『この角打ち、ひどかったですよねえ』

『いや、でも……よくわからなかったです』

パチパチという駒音は、対局中よりずっと軽かった。
声が小さいから何を言っているのかわからないけれど、なごやかな雰囲気は伝わってくる。

「試合が終わったあとに、対戦相手と反省会するって、スポーツなんかじゃあり得ないよね」

お行儀悪く食事中のテーブルに乗せているタブレットを、ちなちゃんはさらにお行儀悪く箸先で指した。

「そうだね」

結果的に、棚原名人は危なげなく勝ったらしい。
川奈さんの無理気味の攻めに対しても、粘りに対しても、冷静に対応してこれといったミスをしなかった。

笑顔の川奈さんは、今どう思っているのだろう。



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