センチメンタル・ファンファーレ
「バカだよねえ。なんで△2八角なんて打ったんだろ」
見上げても、川奈さんは私なんて見ていなかった。
手を読むときと同じ、視線の先ではなく、自分の内側を向いている目だった。
「△4五歩でもよかったし、△5二金でも傷は浅かったのに。△8七角打だって見えてたのに、なんで……」
私の手を握る力がさらに強くなる。
「なんで▲5七玉が見えなかったんだろ。あんなの、俺がいつも指すような手じゃない。なんでこんな時に読み抜けたんだ。焦ったんだろうな。丁寧に丁寧に、って何回も読み直したはずなのに、焦ってたんだろうな。どこかで勝てるって思っちゃって、自分に都合のいい手しか見えなくなってたんだろうな」
川奈さんの言葉は止まらなかった。
相づちを打つ隙もない。
相づちなんて必要としていない。
「バカだなー。俺って本っっっ当にバカだ。次勝ってもダメなんだよ。今日勝たなきゃダメだったんだよ。あああああ、ホントバカ」
月極駐車場を囲むガードレールに、川奈さんは崩れるように座った。
手を離さないので、私もすぐ隣に座る。
「結局弱いんだよね。俺は弱い。弱いから負ける。ただそれだけのことなんだ」
ポストの前を通るたびに、201号室を見るのが癖になっているけれど、朝刊はいつも朝のうちになくなっている。
朝が苦手なくせに、ランニングはずっと続けているらしい。
『どうしたら将棋が強くなれますか?』
初心者からよく聞かれる質問に、川奈さんは『ランニング』とは答えていないだろう。
それなのに走る。
やれることは何でもやっている。
強くなれる方法を、棋士はみんな常に模索している。
「消えたい。消えてなくなれ、今日の俺」
川奈さんはそう言って、ひときわ大きく息を吐いた。
その白い塊はアスファルトの上を漂って、なかなか消えない。
「……さーて、また頑張ろ」
棚原名人は、きっとこんな風に泣き言を言わない。
ひとり悔しさを飲み込むか、気持ちの切り替えが上手で対局室に感情を置いて帰るタイプじゃないかと思う。
でももし、そうでなければ名人になれないと言われても、川奈さんには川奈さんのままでいて欲しい。