センチメンタル・ファンファーレ
「川奈さん、立ち直りは早い方?」
実際の空はともかく、少なくとも川奈さんの頭上に昨夜の雨雲はなくなっていた。
「どうだろう。普通じゃない? いっぱい負けてるから、負けるのにも慣れるよね」
「負けた時って、何日くらい引きずるの?」
「俺はその棋戦終わるまでずーっと引きずる。『あのとき▲4四桂なんて打たなければ、俺が対戦してたのかな』って」
「昨日はひどいこと言っちゃった。重ね重ねごめんなさい」
「いや、事実だもん。情けないところ見せちゃって、俺の方こそごめんね」
一緒にエレベーターへ乗り込むと、小さな箱がガタガタ揺れた。
古いエレベーターは焦らすようにドアを閉める。
「別に情けなくはないでしょ。強がってポッキリ折れちゃう人より、グチグチ言いながらも折れない人の方がよっぽど強━━━━ 」
「ねえ、弥哉ちゃん、なんかいい匂いする」
「え!」
ジャケットの袖や襟ぐりの匂いを嗅いでみるけれど、特別いい匂いなんてしない。
むしろ、一日の汗とか湿気とか職場や電車で移った雑多な臭いがむわっとして顔をしかめる。
「疲れた匂いしかしないよ」
「うーん、シャンプーかな?」
「変態!!」
頭の上の辺りでくんくんと匂いを嗅ぐ川奈さんをチラシの束で殴ったら、ちょうどよく二階に着いた。
叩き出される形で、川奈さんはエレベーターを降りる。
「おっと! お疲れ様ー」
新聞をふりふり笑顔で帰っていく姿が、閉まるドアで見えなくなった。
「なんなの、あの人」
そして約束の今朝。
駅前ベーカリーでかわいい店員さんからクマのドーナツを買って201号室を訪ねると、何度チャイムを押してもなかなか川奈さんは出て来なかった。
嫌みったらしく連打しても出てこないので、ドア脇に紙袋を置いて帰ろうとすると、いつもに増してボサボサの川奈さんが、ようやく姿を現した。
「……はよ、弥哉ちゃん」
「おはようございます。これ約束のドーナツ」
「ありがとう。……わー、かわいい。癒される~。来てくれて助かった」
「それほどたいしたことじゃないよ」
川奈さんはまだ眠そうに目元をこする。
「今日対局なんだ。今来てくれなかったら、危なかった」
時計に目をやると、時刻は七時半を回っていた。
将棋の対局はほとんどが十時に始まるので、準備して移動する時間を考えると、それほど余裕はない。
「何の対局?」
「王将戦一次予選」
「そっか。がんばってね」
おざなりな言葉に、川奈さんは半分寝ぼけながらほわほわと笑う。
「ありがと。合間にこれ食べるね」
「これ、対局中に食べるの?」
「盤の前で食べたらさすがに相手の邪魔しちゃうから、席はずして食べるよ。弥哉ちゃんもこれから仕事?」
「うん。だからもう行くね」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
爪先の向きを変えかけたとき、
「なんか清々しいなあ。ちゃんと生きてるって感じ」
と、目を細めて私を見ていた。
「川奈さんはちゃんと生きてる感じしないもんね……ひゃっ!」
紙袋がボスッと頭に落とされた。
「髪の毛乱れる!」
「俺の心の傷に比べればそれくらい」
川奈さんのふふん、という満足げな笑い声を背中に聞いて、職場に向かったのだった。