センチメンタル・ファンファーレ
「弥哉ちゃんにできることあるよ」
涙が流れるまま川奈さんを見たら、やさしい笑顔で目だけ真剣だった。
「『頑張って』よりもっと他に言って欲しいことがある」
「何?」
首をかしげる私に、川奈さんは少し近づいた。
「あるでしょ。俺に言うこと」
言葉を探す間にも、川奈さんはどんどん近くなっていく。
「まだ一番大事なこと聞いてない」
それは花びらを払う程度の軽いキスだった。
それなのに、「頭で考えるな」とでも言うように、脳は溶けてなくなった。
「言って」
川奈さんはほんの3cmだけ離れて私の言葉を待つ。
なくなった脳の代わりに、身体の奥から直接言葉が漏れ出した。
「好き」
相変わらず涙は流れていたけれど、距離が近いせいか、川奈さんの赤い顔はよく見えた。
「……自分で言わせておいてなんだけど、これ悪手だったな。頭回らない」
「ええっと、ご、ごめん……」
「読みの精度絶対落ちる」
「やだ、ごめん!」
「負けたら弥哉ちゃんのせいだからね」
「ごめんなさい!」
「よーーーし! これで負けても言い訳できる~」
晴れ晴れとした笑顔を見せたあと、急に表情を強ばらせて腕時計に視線を落とす。
「うわー! ごめん、もう行く」
バタバタと部屋を出る川奈さんと一緒に、エレベーターホールまで歩いた。
「私も明日法事があって、これから実家なの。でも、ちゃんと見てるから」
「法事って?」
「お祖父ちゃんの十三回忌だったかな?」
「お祖父ちゃんには後で謝るから、できるだけ見てて」
エレベーターはゆっくり降りてくる。
早く来てあげて欲しい気持ちと、来てほしくない気持ちがちょうど半分ずつ。
それでもエレベーターは到着して、川奈さんはさっと乗り込む。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
手を振るその姿がドアの向こうに消える。
……と思ったら、再び開いて川奈さんがまろび出てきた。
スーツケースが倒れる音とエレベーターのドアが閉まる音が聞こえた。
あとわかるのは、抱き締めてくれる腕が身体に食い込む痛みと、さっきよりずっとずっと深いキスの感触だけ。
髪の毛を掻き分けて、指先が地肌を滑っていく。
長年指先に情熱を乗せてきたこの人は、そこから想いを伝えるすべを身につけているのかもしれない。
短時間でできるだけ距離を詰めようという、濃度の高いキスだった。
最後は頬っぺたに軽いキスを落とし、驚いている私の肩を突き放すように距離を取る。
「わー、ホントやばい! もう階段で行く。じゃあ、今度こそ行ってきます! 弥哉ちゃん、ありがと!」
機能不全に陥っていた私は「行ってらっしゃい」さえ言えなくて、重いスーツケースをガツガツぶつけながら階段を降りて行く川奈さんを、映画でも観てるみたいに遠く見送った。
私は弱いから、つい願ってしまいそうになる。
きっと何度も「神様、勝たせてください」って言ってしまう。
だからどうか神様、私の願いは無視してください。
“運”は望まない人だから、絶対に手を貸さないでください。
ポケットでスマホが何度も震えていたけれど、私はひたすら神様に祈っていた。