センチメンタル・ファンファーレ
お昼休憩が終わって間もなく、パシーンと駒音が響いた。
今の手で少し乱れた駒を川奈さんは中指の先でちょんちょんと直す。
△4六歩
小競り合いが続いていたけれど、いよいよここから戦いが本格化するらしい。
これまで淡々と手を進めてきた市川竜王の手が止まった。
正座して両手を膝に乗せた姿勢のまま、微動だにしない。
『さすがにここは考えますね。二筋に歩か銀を打つのが自然な手ですけど、市川竜王ならもっと踏み込んだ手を考えてるかもしれません』
『……と言いますと?』
『いやー、何だろう? 私なら普通に歩を打っちゃうからなあ』
あはは、と小多田さんは笑って、会場からも笑いが起こる。
「どういうこと?」
「今は市川さんの方に選択肢が多いんだ。攻めるか受けるか。攻めるならどこから攻めるか。こういうところ、棋風が出る」
棋風というのは将棋の性格のようなもので、棋士ひとりひとり違うらしい。
リスクを冒して攻め込む人、手堅く守る人、保留して相手に選択権を渡す人。
どれがいいとか悪いとかではなく、性格だ。
それでいうと、市川竜王は地味な見た目に反して、ハイリスクハイリターンの派手な将棋を好むという。
悩んだ末、市川竜王は小多田さんが予想した手を指した。
川奈さんも想定していたようで、パタパタと数手進んでいく。
「ご飯食べちゃいなさいよー」
会食を放り出している私たちに、お母さんはそれでも控えめな言い方で許してくれた。
「はーい」
気にはなるけど、ふたたび手を止めている市川竜王をチラリと見て、ソファーから腰を上げた。
『ああ、そっち!?』
そのとたん小多田さんの叫び声がして、ふたたびソファーに座る。
「何? どうしたの?」
「予想を上回る苛烈な手だった」
七筋の歩をひとつ進めただけのそれが、会場全体をどよめかせている。
「さすが、すげーギアチェンジ」
「川奈さん大丈夫?」
「まだまだこれからだ。けど、たぶん読んでなかったと思うから長考するよ。ちょうどいいから飯食おう」
宴席は、なぜかすでにお祝いムードになっていた。
「弥哉ちゃん、彼氏は勝ってる?」
細かく説明するのも面倒臭くて、すでに転がっていたビール缶を回収しながら、
「まだわかんないよ」
と答える。
「何時頃に決まるの?」
スーパーで買ってきたからあげをレンジしていたら、キッチンでもそう聞かれる。
「えーっと、持ち時間が一人三時間だから……お兄ちゃーん、終局予想って何時ー?」
「五時半~六時」
「……だって」
「長いねー。黙って観てるのも疲れるでしょ?」
力強いのにきれいな手が好き。
伸ばしたとき、羽織から手首が覗くのも好き。
苦しそうに髪の毛をグルグル触るもの好き。
だらしなく脇息に寄りかかる姿も好き。
頭の中をたったひとつのことでいっぱいにしている横顔が好き。
確かに疲れるし、よくわからないけど、私はずっと見ていたい。
ピロリラリロリラ
レンジの音がして、現実に引き戻された。
「そうだね」
しゅわしゅわ脂の音がするからあげは、きっとおいしいのに、全然食欲が湧かない。
二皿目のからあげをレンジに入れて、一皿目をテーブルに運んだ。