センチメンタル・ファンファーレ

「弥哉、代わるよ。全然食べてないでしょ?」

洗い物をしていたら、ちなちゃんが腕捲りしながらやってきた。

「大丈夫。落ち着かないし、何より食欲ないの」

私がシンクを動かないので、ちなちゃんはタオルで洗い上がった物を拭き始める。

「中継なんてない方が気楽かもね」

六角形の器を拭きにくそうに回す。

「奨励会って中継ないじゃない? だから連絡待つしかないんだけど、その分普通に生活できたもんね。ドキドキはするけどさ」

「そうだね」

お兄ちゃんの昇段がかかると、一日に何度もスマホを確認した。
様子がわかったらいいのにって何度も思ったけど、中継があればあったで吐きそうになる。
本当は、知らない間に勝っててくれるのが一番いい。

「でも、川奈くんは川奈くんだね。対局って普通あんまり動かないのに、落ち着きないよね」

置物みたいに動かない市川竜王が相手だから、川奈さんの動きは余計に目立つ。
思考まで見えてしまうんじゃないかと、心配になるほどだ。

「そうそう。私、来月引っ越すよ」

「ええっ!」

「三月に入ると業者さん捕まらないし、何より高いから。今候補がふたつあって、来週には契約して引っ越す日も決める」

「そっか……」

契約を延長すれば、住むところがなくなるわけじゃないので、つい延ばし延ばしにしていた。
でも、お金のことを考えると、早く引っ越した方がいい。

「弥哉は? 目星くらいついてるの?」

「いいなって思ってたところ、他の人に決まっちゃって、まだ……」

本当のところ、川奈さんが遠くなるようで、なかなか気乗りしなかった。
今なら、家くらい離れたって大丈夫って思えるだろうか。
離れがたさはむしろ増しているのに。


残った料理を小さなお皿にまとめて、しつこく飲んでる伯父さんたちのテーブル以外は片付けてしまう。

「弥哉ちゃん、ごめんね。もういいよ」

ようやくお許しが出たのは二時半過ぎで、私は遠慮なくソファーの真ん中に腰を据えた。

解説は小多田さんではなく別の棋士に変わっていて、今は先手の攻める手順を解説していた。

『……やってみると、意外と難しいですね』

『川奈六段は受けが強いですし』

『これだけお互いに持ち駒があれば、どっちかに形勢が傾いててもおかしくないんですけど……成って、』

『取りまして、』

『桂打ち、』

『寄って、』

『うーーーーん』

『先生、形勢判断お願いします』

『………秋吉さんに任せます』

『それならボールペン倒して決めましょうか?』

隣で携帯を観ていたお兄ちゃんに「つまりどうなってるの?」と聞いたら、

「ソフトでは互角らしい」

という返答があった。

「『ソフトでは』?」

「人間の感覚とは少し違うから。でも、見た感じは互角というか、判断難しい。ただ、そろそろどっちかに転びそう」

「なんでわかるの?」

「経験と知識」

「あ、そう」

川奈さんの側の塗り盆には、丸められたラップが転がっていた。
食べなくていいって言ったのに、意外と律儀な人だ。

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