センチメンタル・ファンファーレ
危ない位置だと言われた川奈玉の周りに、先手の駒の影が忍び寄ってきた。
川奈さんは次々駒を取るけれど、竜の爪が刺さるみたいにひとつ、またひとつと後手陣に先手の駒が増えて行く。
グシャグシャッと髪の毛を乱した川奈さんは、「はああああああ」と頭を抱えて脇息に突っ伏した。
「川奈くん、負けてるの?」
すぐ後ろに祐太郎さんがいた。
日本酒のコップを片手に真っ赤な顔をしているけど、目は真剣に画面を見ている。
「ここ数手で先手に、相手の方に形勢が傾いたところです」
お兄ちゃんが幾分丁寧に説明した。
「川奈くんがミスしたってこと?」
「そうかもしれませんけど、今すぐにはわかりません。あとで検証してみないと」
「へえ、そういうものなんだ」
すぐに悪手だとわかる悪手を思わず指してしまうときもあれば、悪手だったとあとでわかることもある。
人間はコンピューターじゃないから、一見いい手に見えて、すぐには気づかなくて、その後の進行によって結果的に敗着になる、なんてことはよくあるらしい。
だけど、どの手が悪かったか、なんて終わってからでいい。
とにかく今は現状できる最善策を探すしかない。
倒れ込むように脇息にもたれかかっていても、川奈さんの目は鋭く盤を見つめていた。
『この王様が、こう! ひとつ下がっていれば全然景色が違うんですけどね。こんなところにいると生きた心地しないですよ』
解説の棋士は、川奈さんの玉の位置を下げたり上げたりしながらそう言った。
危ない、危ない、と何度も言われる。
でもお兄ちゃんは『いつものことだ』と言う。
それなら、自分の将棋を信じて欲しい。
それでボロ負けしたっていいじゃないか!
……とは言えない。
やっぱり、勝つべきときに勝たないといけないものだから。
「難しいね、将棋」
「当たり前だ」
「お兄ちゃんがすごいことしてるんだって、やっとわかった」
「川奈見てそう思ったんなら、むしろ腹立つ」
「そう言うと思った」
誕生日に川奈さんから“勝利”をもらった。
ゴミにさえならない、と気軽な気持ちで受け取ったあれが、今になって重い。
「川奈さん、負けちゃうのかな……」
信じるってとても難しい。
「川奈さんなら絶対勝てるよ!」って最後まで信じられる人間ならよかったのに、私はもう泣いてしまいそうで、悲観することでショックを和らげようとしていた。
「川奈を嘗めんな」
鋭い叱責が頬を打った。
「川奈はこんなところで終わるヤツじゃない」
げんなりとお兄ちゃんは続けた。
「川奈の将棋はここからなんだ。本っっっ当に執念深くて嫌なヤローなんだよ。勝ち負けはともかく、そうそう楽に勝たせてくれるヤツじゃない。できるだけ公式戦では当たりたくないよ。疲れる」
飲み干したビール缶をカコンとテーブルに叩きつけた。