かりそめ婚ですが、一夜を共にしたら旦那様の愛妻欲が止まりません
「あの、精算してきますね」

「ああ、その必要はない。もう支払ったから、行くぞ」

「え?」

しれっと言うと、長嶺さんは私からスーツケースとボストンバッグを奪い、エントランスへと踵を返した。

支払ったって……ち、ちょっとそんなことさせられないよー!

ホテルに滞在していたのは約一週間。銀座近くという場所が場所だけに少々お高めのホテルだった。だからなるべく部屋にあるミニバーの利用を控えて節約していたけれど、そこそこの金額はいっているはずだ。

「早く乗って」

ホテル前の大通りの路肩に停めた車にとにかく乗るように促される。メタリックホワイトの高級車に一瞬怯むも助手席に座る。続いて長嶺さんが運転席に乗り込んでドアを閉めると、密室に二人きりになった。

「あの、ホテルの宿泊代、ちゃんと後で返しますから」

「なんで? 俺たちは“夫婦”だろ? その必要はない」

夫婦……そ、そうだった。

一日があまりにも慌ただしくて、すっかりそのことを忘れていた……なんて言ったら怒られるかもしれない。長嶺さんにそう言われると、昨夜のことが鮮明に思い起こされる。

――俺とお試し婚をしてもらう。

私と長嶺さんは、ただいまお試し婚の真っ最中。

街の照明に包まれながら、私は走る車の中で昨夜の出来事を反芻していた。

「長嶺さん、さっきパティスリー・ハナザワの前にいましたよね?」

すると、長嶺さんは「バレてたか」と苦笑いした。

「たまたま施設内を通りがかったら君を見かけたんだ。妻の仕事ぶりに興味があった。といっても、こっちの仕事が立て込んでいて少々遅かったみたいだけどな」

妻、だなんて言われるとお試し婚だとわかっていてもなんだか妙な気分だ。

交差点で信号が青になると再びアクセルを踏み、滑らかに車が動き出す。長嶺さんの運転は初めてだったけれど丁寧だ。それに、ハンドルを握る横顔も……なんとなく凛々しく思えてしまう。
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