かりそめ婚ですが、一夜を共にしたら旦那様の愛妻欲が止まりません
カフェに行く約束……か。

部屋の窓からチラッと先ほど彼と別れた場所を見るけれど、そこにはもう人の影はなかった。
なんだか不思議な人だったな……。

一時間くらいバーで飲んだけれど、彼の情報はというと本当かどうかわからない電話番号と、後はモデル並みにスタイルがよかったこと、声が低くてこの辺じゃ見かけないようなイケメンだったことくらいだ。どこで何をしているとかどこに住んでいるとか、年も知らない。

そういえば、肝心な名前すら聞いていなかったな……。

一時間も一緒にいたというのに、彼と交わした会話の内容も「カフェに行く」という漠然とした口約束以外あまり思い出せない。けれど、私は彼にひとつ嘘をついた。

私と彼に今度なんてない。なぜならちょうど昨日、パリでの赴任期間を終え、明日私は日本へ帰国しなければならないからだ。

だから交わした賭けには確実な勝算があった。絶対に再会することはない、という。

けど、それをわかっていてカフェに行くなんて言っちゃったのは、ちょっと後ろめたいかな……。

その場限りの飲み相手とはいえ、正直なことを言えばその場の雰囲気が冷めてしまうのではないかと思った。だから嘘も方便という言葉通り嘘をついてしまった。

はぁ、ごめんなさい……。

謝罪しても、もうその相手は目の前にいない。名前くらい聞いておけばよかった。

どうせ行きずりの相手だし、気にかけることもないよね。

もう一度ため息をつきながら綺麗に片付いた部屋の隅に座り、先ほど手渡されたメモ紙に目を落とす。

実を言うと今、私の置かれている状況は今までの人生で最低の最低、ヤケになってバーで飲み明かそうなんて思うくらい最悪だった。だから、パリでの最後の夜くらい楽しく過ごしたくてひとりでバーへでかけた。
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