いきなり図書館王子の彼女になりました
 その日の夕方5時。

 仕事が終わって裏口から外に出ると、そこで待っていたのは司君では無くて、ツートンカラーのマフラーを巻いた土居君だった。

 あれ?

 …司君、まだ来ていないのかな…?

「土居君、仕事は3時までだったよね?何か忘れ物でもあった?」

「いえ。有沢さんを待っていました」

「え?…私?」

「聴いて欲しいんです。僕が作った曲を」

 …………曲?

「前に1度、『未来志向』に客として来たんです。ピアノが生演奏じゃ無かった時」

 来てくれた事が、あったんだ。

「接客してくれた有沢さんの笑顔を見た瞬間」


 土居君は少しだけ、表情が明るくなった。


「…音楽が湧いて来たんです」


「……………」


 音楽…。


「曲なんて頭に浮かんだの俺、初めてで」

 彼は思い出しながら、嬉しそうに

「もう一度会って有沢さんと話をしたくて、この店でアルバイトを始めたんです」

 私に、打ち明けてくれた。

「…………」

「今から少し時間を貰えませんか?高野さんにOK貰えたので、店のピアノで弾きたいんす」

「…えっと、聴きたいけど土居君、今日は…」

「もう俺、今朝振られてるんで」

「あの…」

「曲を聴いてもらえれば、それで満足です。ご安心下さい」

「ごめんね土居君…今日は、彼がもう迎えに…」


「僕も聴きたい」


 …………!!!


 建物の間から、制服の上に紺色のコートを羽織った司君が現れた。
「こんばんは。…お待たせ、沙織さん」


 …………司君?!

 …………いつからいたの?!!


 土居君は驚いた様子だったが落ち着きを取り戻し、司君に頭を下げて挨拶をした。

「…はじめまして、土居湊音です」

「土居君、この人が私の彼なの」

 私が慌てて紹介すると、司君は土居君の目の前で私の肩をそっと引き寄せた。その表情は静かだが、何の感情も読み取れない。

「白井司です。…土居君は時々ピアノ演奏している人だよね?『未来志向』で」

「…はい」

「すごく上手だから感動してるよ。いつも」

 二人の目と目が合い、何秒か経った。

「ありがとうございます。…もしお時間があれば白井さんも聴いて下さい。今から」

「うん、是非。楽しみに聞かせてもらうよ。…行こ、沙織さん」

 司君は私の肩を抱いたまま、店の正面入り口の方へと歩き出した。土居君は裏口から再び『未来志向』の中へと入って行く。
 
「ノーマークだった…。まさかあのピアノ奏者に、沙織さんが告白されるとはね」

 ………妙な事になってしまった。

「これからは学校以外にも、良く気を配らないと…」

 ………こういう時の司君は、何を考えているか全く分からなくて、少し怖い。

「油断も隙もありはしないね、本当に」

 …言葉も返しづらい!!

 カランカラン、と鈴の音が鳴り響く。

 『未来志向』の正面入り口から、司君と一緒に客として中へと入る。店はとても混雑してほぼ満席になっており、空席に見える場所も予約で一杯の状態だった。

「いらっしゃいませ…あれ?」
 高野さんは少し意外そうな顔をした。先ほど退勤したばかりの私が、客として戻って来たからかも知れない。

「なんだ君達か」

「高野さん、空いている席ありますか?」
 司君が聞くと、高野さんは
「カウンターで良ければ2つ空いてるよ」
と答えてくれた。

 カウンターは、ピアノが一番良く聞こえる席だ。

「はい。では、カウンターで」

 司君と私は、カウンター席に横並びに座り、ホットコーヒーを二つ注文した。




 土居君が再び、壇上に上がる。




 彼は鍵盤に指を当てた。






 
 曲の冒頭部が鳴り響く。





 キラキラと輝いた清らかな天女が、天上から下界へと微笑みながら、滑り降りて来るみたい。





 …………鳥肌が立つ。





 大きくて丸い、綺麗な月と
 光り輝く星々が空に瞬く、

 澄み渡る空気の中の、
 鮮やかな夜の風景が、

 心の中に、ぱっと広がった。



 その音色は、土居君が昨日まで店で弾いていた軽快で楽しいクリスマス・ジャズピアノのメロディーとは、全く違っていた。



 私の心の奥底にある、
 隠された想いまで全部、
 見透かされているみたい。


 自信が持てない、揺れ続ける、
 激しくて、甘い恋心。


 司君の輝きに、
 惹かれれば惹かれるほど


 深く深くなっていく、
 巨大迷路の、闇の奥。


 切なくて、苦しくて、
 たまらなくてもう、いっその事、


 どこかへと
 逃げ出してしまいたい。


 愛される事は
 信じられない嬉しさで。


 決して、失いたく無いはずなのに。
 この幸せな時間全てを。


 些細な何かが触れただけで、
 鋭利な刃物で刺された様に、


「…………沙織さん」


 敏感な心は血を吹き出して、
 涙が溢れて、止まらなくなる。



「…………泣いてるの…?」




 曲が終わり、土居君は鍵盤から指を離した。





 店の客のほぼ全員が、雷に打たれた様に一瞬静かになった後、彼のピアノ演奏に心を打たれ、割れんばかりの拍手を贈った。








 …………本当に、素敵だった。







 …………鋭すぎて痛いくらい。






 土居君は鞄に楽譜を再び仕舞い、壇上から下りて私の前へと歩み寄った。


 私は手が壊れそうになるくらい拍手をし、涙が止まらなくなりながら土居君に

「素晴らしかった………今の曲」
と伝えた。

「俺には、これしか出来ませんから」

 私の泣いた顔を見て土居君は、照れた様に微笑した。

「受け取ってもらえましたか?有沢さん」

「…………うん。ありがとう、土居君」

 私を、好きになってくれて。

「俺、もう帰ります」

 土居君は、私の隣に座る司君に向かって頭を下げた。

「お邪魔してすみませんでした」

 ずっとぼんやりしていた様子だった司君は、土居君をしばらくじっと見つめ、彼に向かってこう言った。

「…………土居君」

「…………はい」

「…………今の曲、沙織さんだよね」


「…………そうです」


「…………凄いね。びっくりした」


「…嬉しいです。そう言ってもらえると」


 土居君が私達に再び挨拶して帰ってしまうと、司君は私の方に向き直った。


「沙織さん、話があるんでしょう?今聞きたい」


「…………うん」


 私は大きく、深呼吸した。


「昨日の昼、胡桃と司君が『ランタン』に入って行くのが見えたの。ここから」



「…………!」




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