きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~
第13話:獅子と黒豹。
「今なら……後宮から離れた今なら逃がしてやれる。俺と来い、アセナ」
何の感情も伺えない静かな声だった。
「サ……ヤン?」
アセナは後ずさった。
(怖い……)
この、目の前にいる男は誰なのだ?
鋭敏な雰囲気を身にまとい冴え冴えとした月の様にその瞳を冥くしている男を、アセナは知らない。
(四年でなにがあったの??)
アセナの記憶のサヤンとまるで違っていた。
サヤンは、もっと優しく柔らかい青年だ。
素朴な農夫でいつも土と向き合い仕事に誠実だった。
アセナや村の子供たちには親切でめったに怒らない。
それどころか子供のころからどんな理不尽なことがあろうと声を荒げることすらない人間であった。
「いったい何を言ってるの? サヤン、意味が分からないよ」
「アセナ、俺はね。郷を離れて四年、ずっと考えていたんだ。アセナの事を。それなのにアセナが売られたと知った時、俺は何も出来なかった。アセナがどんな辛い目に合わされるか分かっていたのに。だからもし次会えたなら、必ずアセナを救ってやるって決めてた」
サヤンは足音もたてず、二歩三歩とアセナへの距離を縮めていく。
「今の俺ならできる」
(今しかないんだ)
力をこめて拳を握り締めた。
サヤンは初めてアスランと対峙した。
この国の支配者、施政者。皇帝アスラン・パッシャール。
前皇帝の三男でありながら、兄達を廃し皇帝の位を奪い取った簒奪者と評されるが、危うい均衡で成り立つ周辺諸国間において絶妙な感覚で舵をとりパシャを繁栄に導きつつあるという。
そこに居るだけで圧倒される存在だった。
二十代でこの国を治める者は、当然凡庸ではない。そして……
(皇帝はアセナを利用しようとしている)
『太陽の子』が帝室で重用されていることは伝え聞いている。
アセナを求めるのは当然だ。だが皇帝はアセナに対しての何かしらの思惑を胸の内に秘めている。決して表には出さないが確実に、ある。
サヤンはほんの僅かな拝謁でそれを確信した。
「……閣下がアセナの後見に立った。きっと皇妃かそれ以上を見据えてのことだ。無位でいられるなら、後宮をでる術もある。けれど陛下がお渡りになられたら、それでもうアセナは後宮から下ることなど出来なくなる。一生を狭い後宮でいきていかないとならなくなる」
サヤンはアセナの腕を掴み、
「耐えられるのか? アセナ。ウダの郷で育ったお前が、あの壁の中で生きれるのか?」
「……分からない。耐えられるかなんて、そんなこと」
正直なところ自信なんてなかった。
後宮の生活は気が滅入ることしかない。
ウダの郷のように自由もなく、宮女たちから浴びせられる嫉妬と欲望は神経が磨り減っていく一方だ。
「でも……後宮から逃げるとか、そんなことは出来ない。違う。……しないよ。後宮を去る時は正式に許可をもらって堂々と門から出るよ。サヤン、お願いだからそんなこと考えないで。罪を犯して欲しくない」
皇帝の妃をさらう、軍で地位のある者が遁走する、どちらも罪だ。
捉えられたら只ではすまない。おそらく懲役もしくは死罪は免れないだろう。
「俺のことは考えなくてもいいんだ。自分のことだけ考えればいい」
サヤンはアセナの腕を掴んだ拳を緩めるとゆるゆると持ち上げ、アセナの頬に触れた。
ウダの郷では食料も充分に食べれず乾燥し痩せくぼんでいた頬。今ではふっくらと絹のように肌理が細かく艶やかだった。
「サヤン。私は幸せよ。毎日食事も出来て、破れていない服も着れる。勉強もできるの。四年で読み書きが出来るようになったのよ。だから、サヤン。私のことは心配しないで。サヤンはサヤンの思うように生きたらいいの」
何不自由なく生きている――いいや違う。
それは家畜とかわらない。家畜のようにただ生かされているだけではないか?
「アセナ、俺はアセナが……」
その時風向きが変わった。
東からの軽風にのりふわりと森の香りがする。
嗅ぎ覚えのある香り、乳香の香りだ。
長身の影がゆったりとこちらに近づいてくる。
(どうしてここに?)
アセナはザワリと心が沸き立つのを感じた。
「良い庭だろう。ここは」
「陛下……」
微笑みながらアセナの隣に立ったアスランは、物珍しそうにウダ族の青年を眺める。
黒い癖毛とウダの碧瞳、そしてしなやかで野生的な体つき。パシャの大部分の住民とは全く趣きが異なっている。
「エリテルの部下であったな。ウダ族の若者よ」
アセナとサヤンが膝をつこうとするのを制し、
「二人はウダの郷で一緒に育ったそうだな? 久しぶりの再会で昂るのは分かるが、それ以上は看過できぬぞ。アセナは俺の大事な妃なのでな」
「陛下。サヤンとは御心を悩ませる事は何もありません。何卒、何卒」
アセナは必死に抗議した。
アスランの心一つでサヤンの処遇が決まるのだ。幼馴染には何の咎もない。
アスランはそっと顔を寄せるとアセナだけに聞こえるように囁いた。
「名前で呼べ、アセナ。そうしたら許してやる」
言葉とは裏腹にただただ甘い。アセナは顔中を赤らめた。
「……アスラン様。どうかご容赦を」
「よく言えた」
満足そうにアスランはアセナの手を引き抱き寄せた。
(皇帝はアセナを手放す気はないのか……)
羞恥に固まる幼馴染をサヤンは苦々しい面持ちで見守っていた。が、やがて、静かに口を開いた。
「陛下、アセナをどうなさるおつもりですか? アセナは平民の出。皇妃など到底勤まるとは考えられません。数多くいらっしゃる妃にはアセナ以上に皇妃にふさわしい方もありましょう」
「確かにお前の言うとおりだ。アセナより相応しい者は他にもいる。だがな、アセナは帝室でいう“先祖がえり”だ。ウダは『太陽の子』と呼ぶらしいがな。それだけでも皇妃になる意味がある」
「『太陽の子』など迷信に過ぎません。皇帝たる方がその様なものに振り回されるなど笑止の沙汰としか思えません」
「サヤンといったか。お前の碧玉に免じて教えてやろう」
アスランは息をついた。
「俺はアセナを気に入ってるんだよ。それだけだ」
何の感情も伺えない静かな声だった。
「サ……ヤン?」
アセナは後ずさった。
(怖い……)
この、目の前にいる男は誰なのだ?
鋭敏な雰囲気を身にまとい冴え冴えとした月の様にその瞳を冥くしている男を、アセナは知らない。
(四年でなにがあったの??)
アセナの記憶のサヤンとまるで違っていた。
サヤンは、もっと優しく柔らかい青年だ。
素朴な農夫でいつも土と向き合い仕事に誠実だった。
アセナや村の子供たちには親切でめったに怒らない。
それどころか子供のころからどんな理不尽なことがあろうと声を荒げることすらない人間であった。
「いったい何を言ってるの? サヤン、意味が分からないよ」
「アセナ、俺はね。郷を離れて四年、ずっと考えていたんだ。アセナの事を。それなのにアセナが売られたと知った時、俺は何も出来なかった。アセナがどんな辛い目に合わされるか分かっていたのに。だからもし次会えたなら、必ずアセナを救ってやるって決めてた」
サヤンは足音もたてず、二歩三歩とアセナへの距離を縮めていく。
「今の俺ならできる」
(今しかないんだ)
力をこめて拳を握り締めた。
サヤンは初めてアスランと対峙した。
この国の支配者、施政者。皇帝アスラン・パッシャール。
前皇帝の三男でありながら、兄達を廃し皇帝の位を奪い取った簒奪者と評されるが、危うい均衡で成り立つ周辺諸国間において絶妙な感覚で舵をとりパシャを繁栄に導きつつあるという。
そこに居るだけで圧倒される存在だった。
二十代でこの国を治める者は、当然凡庸ではない。そして……
(皇帝はアセナを利用しようとしている)
『太陽の子』が帝室で重用されていることは伝え聞いている。
アセナを求めるのは当然だ。だが皇帝はアセナに対しての何かしらの思惑を胸の内に秘めている。決して表には出さないが確実に、ある。
サヤンはほんの僅かな拝謁でそれを確信した。
「……閣下がアセナの後見に立った。きっと皇妃かそれ以上を見据えてのことだ。無位でいられるなら、後宮をでる術もある。けれど陛下がお渡りになられたら、それでもうアセナは後宮から下ることなど出来なくなる。一生を狭い後宮でいきていかないとならなくなる」
サヤンはアセナの腕を掴み、
「耐えられるのか? アセナ。ウダの郷で育ったお前が、あの壁の中で生きれるのか?」
「……分からない。耐えられるかなんて、そんなこと」
正直なところ自信なんてなかった。
後宮の生活は気が滅入ることしかない。
ウダの郷のように自由もなく、宮女たちから浴びせられる嫉妬と欲望は神経が磨り減っていく一方だ。
「でも……後宮から逃げるとか、そんなことは出来ない。違う。……しないよ。後宮を去る時は正式に許可をもらって堂々と門から出るよ。サヤン、お願いだからそんなこと考えないで。罪を犯して欲しくない」
皇帝の妃をさらう、軍で地位のある者が遁走する、どちらも罪だ。
捉えられたら只ではすまない。おそらく懲役もしくは死罪は免れないだろう。
「俺のことは考えなくてもいいんだ。自分のことだけ考えればいい」
サヤンはアセナの腕を掴んだ拳を緩めるとゆるゆると持ち上げ、アセナの頬に触れた。
ウダの郷では食料も充分に食べれず乾燥し痩せくぼんでいた頬。今ではふっくらと絹のように肌理が細かく艶やかだった。
「サヤン。私は幸せよ。毎日食事も出来て、破れていない服も着れる。勉強もできるの。四年で読み書きが出来るようになったのよ。だから、サヤン。私のことは心配しないで。サヤンはサヤンの思うように生きたらいいの」
何不自由なく生きている――いいや違う。
それは家畜とかわらない。家畜のようにただ生かされているだけではないか?
「アセナ、俺はアセナが……」
その時風向きが変わった。
東からの軽風にのりふわりと森の香りがする。
嗅ぎ覚えのある香り、乳香の香りだ。
長身の影がゆったりとこちらに近づいてくる。
(どうしてここに?)
アセナはザワリと心が沸き立つのを感じた。
「良い庭だろう。ここは」
「陛下……」
微笑みながらアセナの隣に立ったアスランは、物珍しそうにウダ族の青年を眺める。
黒い癖毛とウダの碧瞳、そしてしなやかで野生的な体つき。パシャの大部分の住民とは全く趣きが異なっている。
「エリテルの部下であったな。ウダ族の若者よ」
アセナとサヤンが膝をつこうとするのを制し、
「二人はウダの郷で一緒に育ったそうだな? 久しぶりの再会で昂るのは分かるが、それ以上は看過できぬぞ。アセナは俺の大事な妃なのでな」
「陛下。サヤンとは御心を悩ませる事は何もありません。何卒、何卒」
アセナは必死に抗議した。
アスランの心一つでサヤンの処遇が決まるのだ。幼馴染には何の咎もない。
アスランはそっと顔を寄せるとアセナだけに聞こえるように囁いた。
「名前で呼べ、アセナ。そうしたら許してやる」
言葉とは裏腹にただただ甘い。アセナは顔中を赤らめた。
「……アスラン様。どうかご容赦を」
「よく言えた」
満足そうにアスランはアセナの手を引き抱き寄せた。
(皇帝はアセナを手放す気はないのか……)
羞恥に固まる幼馴染をサヤンは苦々しい面持ちで見守っていた。が、やがて、静かに口を開いた。
「陛下、アセナをどうなさるおつもりですか? アセナは平民の出。皇妃など到底勤まるとは考えられません。数多くいらっしゃる妃にはアセナ以上に皇妃にふさわしい方もありましょう」
「確かにお前の言うとおりだ。アセナより相応しい者は他にもいる。だがな、アセナは帝室でいう“先祖がえり”だ。ウダは『太陽の子』と呼ぶらしいがな。それだけでも皇妃になる意味がある」
「『太陽の子』など迷信に過ぎません。皇帝たる方がその様なものに振り回されるなど笑止の沙汰としか思えません」
「サヤンといったか。お前の碧玉に免じて教えてやろう」
アスランは息をついた。
「俺はアセナを気に入ってるんだよ。それだけだ」