きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~
第4話:リボルの思考。
アセナが主寝室から出るとリボルが控えていた。
「アセナ妃様。おはようございます」
部屋から出てきたアセナに軽く会釈をし、ぴたりと視線を止める。
「おや?」
何か異変があったことに気づいたようである。
「冴えないお顔をなさっておいでですが、カルロッテ皇妃様と何かございました?」
「あんたって相変わらず目ざといよね」
アセナは苦笑した。
ずる賢いが気転が利くリボルは頼りになる。アセナはリボルと並び自室に向う回廊を歩きながら、小声で言った。
「陛下が昼餉にいらっしゃるそうよ?……なんとかならないかな?」
「なんとかならないとはどういうことです? アセナ様。もしかして理由をつけてご参加辞退とか考えていらっしゃいます?」
「その通りだけど。何か問題ある?」
「ありますよ。せっかく昨日陛下とお近づきになれたうえに、日を置かずしてのこの好機! ふいになさるなど愚かなことです。とにかく絶対にご参加いただきますよ。リボル、引っ張ってでもお連れします!」
「……ほんっと自分の欲望には正直よね。感心するわ。ねぇ、少しは主人の気持ちを汲み取って欲しいんだけど」
「今回は出来かねます。この好機を逃す手はありません。後宮において出世を考えない者のほうが、異質なのですよ。貴女様は稀なお方だということをご理解いただきたいですね」
リボルの出世欲は、ぶれない。
カルロッテの部屋子、アセナと同じ“無位の妃”は全員で5人。
小柄なカルロッテにいつまでも大柄な皇帝の相手が務まるとは思えない。懐妊した暁にはカルロッテの方から房事勤めを辞退するとみられていた。
であるならば、次のお相手にはカルロッテの部屋付き“無位の妃”から選ばれる可能性は高いだろう。
寵愛を受けた妃が皇帝の愛を繋ぎとめる為に自分の侍女や部屋子を差し出すのは良くある話だ。
皇帝と接触したことのない無位の妃たちのなかでは、一度でも言葉を交わし、皇帝自身も嫌悪感を示さなかったアセナは最有力候補だとリボルは考えていた。
「皇妃におなりになる為の第一歩です。例えそれがカルロッテ様の御代わりだとしてもお話があればお受けするべきですよ」
「……リボル。第三位宮でめったなこと言わないで」
アセナも理解していた。
カルロッテは同性の自分から見てもか細く病弱だった。
閨が負担になっていることも分かっていた。体が小さく未熟であるために子を身篭るのも難しいのではないかということも、唯一側役を任されているアセナは感じていた。
もしもカルロッテが房事を辞す事があれば、他の誰よりもアセナを推すだろうということも。
「といってもね……」
(気が進まない……)
アセナの希望は無位の妃のまま安穏に過ごすことだ。
後宮に居れば食いっぱぐれもなく、住む所にも困らない。さらに最下級の無位の妃であれば、大した責任も嫉妬もなく快適に過ごせるのだ。
皇帝の渡りもないまま数年を経れば後宮を出て郷に戻ることも、下賜され裕福な家庭に嫁ぐことも出来るときく。
それが一度でも皇帝と関係を持ってしまえば、もう無位ではいられなくなる。皇妃となり傅かれながら一生をこの後宮ですごさねばならない。
(学がついた今なら……皇妃としてではなく違う生き方も探せるんじゃないかな……)
アセナは文盲だった。
教育を受ける機会もなく、土地の農婦として生きていた。
かつて郷で出会った貴人に教えてもらった自分の名前を必死に練習し、後宮入りした15の年にはお手本と見違えるように書けるようにはなっていた。
言い換えれば、それしか出来なかった。
そんなアセナに後宮という環境は全てを与えた。
衣食住。身体の安全。そして学問。
女衒に身を売った時は、生きていくこと、ご飯を食べることで精一杯。それだけしか考えられなかった。
4年が経った今。
アセナは自分の行く末を考えられるまでになったのだ。
衣食たりて礼節を知る、とはまさしくその通りだ。
いつか後宮を離れるんだもの、とアセナは口の中で呟いた。
ふと、爽やかな森のような懐かしい香りが鼻腔に甦った。
乳香の、高価な乳香の香り。
これはアスランの香りだ。
甘い声。
昂った感情。早打ちする心臓……。
(ううん、あれはなんでもなかった。別になんともない)
思いとは裏腹にアセナはその感情に気づく。
ウダの郷で暮らしていた頃、一度だけ同じ思いを体験したことがあった。
同い年の幼馴染に抱いた……あれはきっと……。
なだらかな感情の波が大きく揺さぶられる。そんなものはこの生活には必要ない。
(私はそんなのなくていいの。この生活で満足だよ)
アセナは思う。
(あの貴人さん、元気にしてるかな)
秘密の園であった背の高い優しい青年。
彼はアセナの光になった。
アセナという字を伝えてくれたのだ。今の自分を造った第一歩はそこからだった。
もしも後宮を出ることが出来たら、あの貴人ダイヴァに会いたい。
「アセナ妃様。おはようございます」
部屋から出てきたアセナに軽く会釈をし、ぴたりと視線を止める。
「おや?」
何か異変があったことに気づいたようである。
「冴えないお顔をなさっておいでですが、カルロッテ皇妃様と何かございました?」
「あんたって相変わらず目ざといよね」
アセナは苦笑した。
ずる賢いが気転が利くリボルは頼りになる。アセナはリボルと並び自室に向う回廊を歩きながら、小声で言った。
「陛下が昼餉にいらっしゃるそうよ?……なんとかならないかな?」
「なんとかならないとはどういうことです? アセナ様。もしかして理由をつけてご参加辞退とか考えていらっしゃいます?」
「その通りだけど。何か問題ある?」
「ありますよ。せっかく昨日陛下とお近づきになれたうえに、日を置かずしてのこの好機! ふいになさるなど愚かなことです。とにかく絶対にご参加いただきますよ。リボル、引っ張ってでもお連れします!」
「……ほんっと自分の欲望には正直よね。感心するわ。ねぇ、少しは主人の気持ちを汲み取って欲しいんだけど」
「今回は出来かねます。この好機を逃す手はありません。後宮において出世を考えない者のほうが、異質なのですよ。貴女様は稀なお方だということをご理解いただきたいですね」
リボルの出世欲は、ぶれない。
カルロッテの部屋子、アセナと同じ“無位の妃”は全員で5人。
小柄なカルロッテにいつまでも大柄な皇帝の相手が務まるとは思えない。懐妊した暁にはカルロッテの方から房事勤めを辞退するとみられていた。
であるならば、次のお相手にはカルロッテの部屋付き“無位の妃”から選ばれる可能性は高いだろう。
寵愛を受けた妃が皇帝の愛を繋ぎとめる為に自分の侍女や部屋子を差し出すのは良くある話だ。
皇帝と接触したことのない無位の妃たちのなかでは、一度でも言葉を交わし、皇帝自身も嫌悪感を示さなかったアセナは最有力候補だとリボルは考えていた。
「皇妃におなりになる為の第一歩です。例えそれがカルロッテ様の御代わりだとしてもお話があればお受けするべきですよ」
「……リボル。第三位宮でめったなこと言わないで」
アセナも理解していた。
カルロッテは同性の自分から見てもか細く病弱だった。
閨が負担になっていることも分かっていた。体が小さく未熟であるために子を身篭るのも難しいのではないかということも、唯一側役を任されているアセナは感じていた。
もしもカルロッテが房事を辞す事があれば、他の誰よりもアセナを推すだろうということも。
「といってもね……」
(気が進まない……)
アセナの希望は無位の妃のまま安穏に過ごすことだ。
後宮に居れば食いっぱぐれもなく、住む所にも困らない。さらに最下級の無位の妃であれば、大した責任も嫉妬もなく快適に過ごせるのだ。
皇帝の渡りもないまま数年を経れば後宮を出て郷に戻ることも、下賜され裕福な家庭に嫁ぐことも出来るときく。
それが一度でも皇帝と関係を持ってしまえば、もう無位ではいられなくなる。皇妃となり傅かれながら一生をこの後宮ですごさねばならない。
(学がついた今なら……皇妃としてではなく違う生き方も探せるんじゃないかな……)
アセナは文盲だった。
教育を受ける機会もなく、土地の農婦として生きていた。
かつて郷で出会った貴人に教えてもらった自分の名前を必死に練習し、後宮入りした15の年にはお手本と見違えるように書けるようにはなっていた。
言い換えれば、それしか出来なかった。
そんなアセナに後宮という環境は全てを与えた。
衣食住。身体の安全。そして学問。
女衒に身を売った時は、生きていくこと、ご飯を食べることで精一杯。それだけしか考えられなかった。
4年が経った今。
アセナは自分の行く末を考えられるまでになったのだ。
衣食たりて礼節を知る、とはまさしくその通りだ。
いつか後宮を離れるんだもの、とアセナは口の中で呟いた。
ふと、爽やかな森のような懐かしい香りが鼻腔に甦った。
乳香の、高価な乳香の香り。
これはアスランの香りだ。
甘い声。
昂った感情。早打ちする心臓……。
(ううん、あれはなんでもなかった。別になんともない)
思いとは裏腹にアセナはその感情に気づく。
ウダの郷で暮らしていた頃、一度だけ同じ思いを体験したことがあった。
同い年の幼馴染に抱いた……あれはきっと……。
なだらかな感情の波が大きく揺さぶられる。そんなものはこの生活には必要ない。
(私はそんなのなくていいの。この生活で満足だよ)
アセナは思う。
(あの貴人さん、元気にしてるかな)
秘密の園であった背の高い優しい青年。
彼はアセナの光になった。
アセナという字を伝えてくれたのだ。今の自分を造った第一歩はそこからだった。
もしも後宮を出ることが出来たら、あの貴人ダイヴァに会いたい。