きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~
第7話:紫煙。
静かな、とても静かな宮殿である。
まだ陽は高いというのに人の気配がしない。
ここは後宮。
後宮にいくつかある宮殿の一つ。
白亜の宮であるのは第三位皇妃の宮と変わらないが、流行の家具調度品で飾られている。この宮に住む女主人の後見人の権力の強さを感じさせた。
静寂が支配する廊下を音もなく宦官が走り行く。
向う先はこの宮の主寝室、第一位皇妃ヤスミン・デミレルの部屋である。宦官はまたも音を立てずに扉をあけるとスルリと中へ入った。
部屋の中心に御簾がひかれている。
後ろに一つの女性の影があった。やせぎすの宦官は御簾の前で跪いた。
「第一位皇妃様。先ほど第三位皇妃様の宮に皇帝陛下がお見えになられました」
「宵でもないというのにお渡りに? 昼間からおいでになるとは……。」
第一位皇妃は煙管に煙草の葉をつめ、火をつける。
かすかに指先が震える。
「なんと第三位皇妃に御執心あられるのだろう。こちらの宮には長うおいでにならぬというのに……。カルロッテ姫は子どもの様に幼い姿だが見かけによらぬのか。どれほどの手管を身につけておるというのか」
ヤスミンは煙管を口につけ、
「……もう陛下も妾のことなどお忘れであろうなぁ。ここのところとんと参られぬではないか。さてもこれほどまでにカルロッテに御執心とは。皇后にはカルロッテが冠ぜられることになるやもしれぬな」
「何をおっしゃいますのか、ヤスミン様。ヤスミン様はこのパシャの名門デミレル家がご令嬢。さらにはすでに皇子がいらっしゃいます。まだ子がおらぬ第三位皇妃様は足元にも及びませぬ。他の皇妃様方も御子は姫ばかり。ヤスミン様が抜きん出ておられます」
「カルロッテ姫はまだ若い。寵愛も賜っておる。いずれ孕もう」
宦官は声を顰める。
「カルロッテ様は御体が弱く御懐妊自体も困難という噂にございます。……それも含めまして、この度、新しい皇妃を近々召されるのではないかと」
「皇妃をか? どのような女子じゃ?」
「はい。現在は無位でございますが、すでに第三位皇妃の宮に部屋を与えられたとのことでございます。卑しい身の上ゆえ、女衒に売られて後宮入りしたとか。辺境の少数民族の娘とのことでございます」
「ほぅ。後見をもたぬ――ということは陛下が御自ら選定なさったということか。捨て置けぬな」
現在の皇妃は四人。
近隣各国から献上された王女と代々宰相を務める第一の臣下デミレル家の娘ヤスミンである。
全て政略的配慮に基づいた皇妃であるといっていい。
皇帝アスランが自らの後宮において、数多く居る宮女から選び渡るということはものの一度もなかった。
今回自ら選んだということは、今までいる皇妃とは意味が違ってくる。
ヤスミンは美しく紅の塗られた唇で煙草を優雅に吸い、
「カルロッテの動向を逐一報告いたせ。その無位の妃もな」
ふうっと煙をくゆらせた。
昼の渡りから数週間がたった。
直後からアセナを取り巻くすべてが変わっていた。
皇帝アスランの指示により、雑魚寝の部屋子から第三位皇妃の宮に1人部屋を与えられることになった。つまりはいずれ皇妃として皇帝の渡りも想定して……ということらしい。
おかげで同僚の無位の妃からは冷たくあしらわれ、居心地の悪さはこの上なかった。
つい数日前までは気楽におしゃべりをし、笑いあっていたというのに。
今では敬語。しかもよそよそしく、誰も話しかけてすらくれなくなった。気軽に話す相手はカルロッテくらいである。
(たかだか瞳の色が変わるくらいなのに)
皇帝も軽率だ、とアセナは思う。
ウダの民に稀に誕生する『太陽の子』。言伝えでは幸運をもたらす子であり、尊ばれるべき存在である。アセナも『太陽の子』であるらしい。
が。
全ては迷信だ。
真実そうであるなら自分は後宮にはいないはずだ。
女衒に売られることもなく、あの飢饉を乗り越え、ウダの郷で生き、村の男と結婚しているはずだった。
唯一の幸運はこの瞳とウダ族の姿かたちの良さゆえに街の女郎屋に売られなかったことだけだ。
帝室でも”先祖がえり”と言い重用されるらしいが……迷惑なだけである。
(瞳の色如きで。パシャ帝室もいい加減なもんだわ)
アセナは深くため息をついた。
カルロッテの部屋ほど広くはないが、今まで雑魚寝で過ごしていた身からすれば広すぎる部屋だ。
郷に居るころも兄弟達と身を寄せ合って狭い部屋で過ごしていた。後宮に来てもそうである。
広い部屋に1人という経験はなく、人の気配がないのは正直寂しかった。
「アセナ妃様。何を冴えないお顔をなさっておいでですか。大出世でございますよ! 四年、このリボル、頑張った甲斐がございました」
リボルは自らの格も引き上げられ上機嫌だ。アセナは呆れたように笑う。
「あんただけよ、喜んでるのは」
「次ぎは陛下のご寵愛を得て御子を、ぜひ皇子をお産みくださいませ。あぁお1人といわず、幾人もお産みになられると磐石でございますよ」
「陛下はもう御子を得ていらっしゃるわ。私は子を望まれて皇妃候補になったわけではないの。わかってるでしょ? 縁起物の『太陽の子』が必要だっただけよ」
「偽が真になることもございますよ」
「もぉあんたってぶれないよね」
ぎらぎらしたリボルの出世欲だけは変わらない。アセナはなぜか安心した。
「さて、そろそろ賢者様がいらっしゃいますよ。ご準備いたしましょう」
あの午後の渡りから変わったことは処遇だけではなかった。
週に二度、老学者ヘダーヤトがアセナに教育を与えるため、そして自らの研究を深めるために第三位皇妃の宮へやってくるようになったのだ。
本来ならば男性が後宮に入るのはご法度であったが、高名なヘダーヤトであること、そして皇帝自らが請ったことで実現したのである。
アセナはこの時間が好きだった。
博学のヘダーヤトからは学ぶことが多く、今まで触れたことのない世界を知るのは大変楽しいことだった。ケチのつけようのない幸せだ。
ただ一つ公務の時間が空けばアスランまで参加するということを除いては。
「ヘダーヤトの講義はなかなか受けれるものではない。俺も学びたいのだ」
と曇りのない笑顔で言われると、否といえないアセナである。
まだ陽は高いというのに人の気配がしない。
ここは後宮。
後宮にいくつかある宮殿の一つ。
白亜の宮であるのは第三位皇妃の宮と変わらないが、流行の家具調度品で飾られている。この宮に住む女主人の後見人の権力の強さを感じさせた。
静寂が支配する廊下を音もなく宦官が走り行く。
向う先はこの宮の主寝室、第一位皇妃ヤスミン・デミレルの部屋である。宦官はまたも音を立てずに扉をあけるとスルリと中へ入った。
部屋の中心に御簾がひかれている。
後ろに一つの女性の影があった。やせぎすの宦官は御簾の前で跪いた。
「第一位皇妃様。先ほど第三位皇妃様の宮に皇帝陛下がお見えになられました」
「宵でもないというのにお渡りに? 昼間からおいでになるとは……。」
第一位皇妃は煙管に煙草の葉をつめ、火をつける。
かすかに指先が震える。
「なんと第三位皇妃に御執心あられるのだろう。こちらの宮には長うおいでにならぬというのに……。カルロッテ姫は子どもの様に幼い姿だが見かけによらぬのか。どれほどの手管を身につけておるというのか」
ヤスミンは煙管を口につけ、
「……もう陛下も妾のことなどお忘れであろうなぁ。ここのところとんと参られぬではないか。さてもこれほどまでにカルロッテに御執心とは。皇后にはカルロッテが冠ぜられることになるやもしれぬな」
「何をおっしゃいますのか、ヤスミン様。ヤスミン様はこのパシャの名門デミレル家がご令嬢。さらにはすでに皇子がいらっしゃいます。まだ子がおらぬ第三位皇妃様は足元にも及びませぬ。他の皇妃様方も御子は姫ばかり。ヤスミン様が抜きん出ておられます」
「カルロッテ姫はまだ若い。寵愛も賜っておる。いずれ孕もう」
宦官は声を顰める。
「カルロッテ様は御体が弱く御懐妊自体も困難という噂にございます。……それも含めまして、この度、新しい皇妃を近々召されるのではないかと」
「皇妃をか? どのような女子じゃ?」
「はい。現在は無位でございますが、すでに第三位皇妃の宮に部屋を与えられたとのことでございます。卑しい身の上ゆえ、女衒に売られて後宮入りしたとか。辺境の少数民族の娘とのことでございます」
「ほぅ。後見をもたぬ――ということは陛下が御自ら選定なさったということか。捨て置けぬな」
現在の皇妃は四人。
近隣各国から献上された王女と代々宰相を務める第一の臣下デミレル家の娘ヤスミンである。
全て政略的配慮に基づいた皇妃であるといっていい。
皇帝アスランが自らの後宮において、数多く居る宮女から選び渡るということはものの一度もなかった。
今回自ら選んだということは、今までいる皇妃とは意味が違ってくる。
ヤスミンは美しく紅の塗られた唇で煙草を優雅に吸い、
「カルロッテの動向を逐一報告いたせ。その無位の妃もな」
ふうっと煙をくゆらせた。
昼の渡りから数週間がたった。
直後からアセナを取り巻くすべてが変わっていた。
皇帝アスランの指示により、雑魚寝の部屋子から第三位皇妃の宮に1人部屋を与えられることになった。つまりはいずれ皇妃として皇帝の渡りも想定して……ということらしい。
おかげで同僚の無位の妃からは冷たくあしらわれ、居心地の悪さはこの上なかった。
つい数日前までは気楽におしゃべりをし、笑いあっていたというのに。
今では敬語。しかもよそよそしく、誰も話しかけてすらくれなくなった。気軽に話す相手はカルロッテくらいである。
(たかだか瞳の色が変わるくらいなのに)
皇帝も軽率だ、とアセナは思う。
ウダの民に稀に誕生する『太陽の子』。言伝えでは幸運をもたらす子であり、尊ばれるべき存在である。アセナも『太陽の子』であるらしい。
が。
全ては迷信だ。
真実そうであるなら自分は後宮にはいないはずだ。
女衒に売られることもなく、あの飢饉を乗り越え、ウダの郷で生き、村の男と結婚しているはずだった。
唯一の幸運はこの瞳とウダ族の姿かたちの良さゆえに街の女郎屋に売られなかったことだけだ。
帝室でも”先祖がえり”と言い重用されるらしいが……迷惑なだけである。
(瞳の色如きで。パシャ帝室もいい加減なもんだわ)
アセナは深くため息をついた。
カルロッテの部屋ほど広くはないが、今まで雑魚寝で過ごしていた身からすれば広すぎる部屋だ。
郷に居るころも兄弟達と身を寄せ合って狭い部屋で過ごしていた。後宮に来てもそうである。
広い部屋に1人という経験はなく、人の気配がないのは正直寂しかった。
「アセナ妃様。何を冴えないお顔をなさっておいでですか。大出世でございますよ! 四年、このリボル、頑張った甲斐がございました」
リボルは自らの格も引き上げられ上機嫌だ。アセナは呆れたように笑う。
「あんただけよ、喜んでるのは」
「次ぎは陛下のご寵愛を得て御子を、ぜひ皇子をお産みくださいませ。あぁお1人といわず、幾人もお産みになられると磐石でございますよ」
「陛下はもう御子を得ていらっしゃるわ。私は子を望まれて皇妃候補になったわけではないの。わかってるでしょ? 縁起物の『太陽の子』が必要だっただけよ」
「偽が真になることもございますよ」
「もぉあんたってぶれないよね」
ぎらぎらしたリボルの出世欲だけは変わらない。アセナはなぜか安心した。
「さて、そろそろ賢者様がいらっしゃいますよ。ご準備いたしましょう」
あの午後の渡りから変わったことは処遇だけではなかった。
週に二度、老学者ヘダーヤトがアセナに教育を与えるため、そして自らの研究を深めるために第三位皇妃の宮へやってくるようになったのだ。
本来ならば男性が後宮に入るのはご法度であったが、高名なヘダーヤトであること、そして皇帝自らが請ったことで実現したのである。
アセナはこの時間が好きだった。
博学のヘダーヤトからは学ぶことが多く、今まで触れたことのない世界を知るのは大変楽しいことだった。ケチのつけようのない幸せだ。
ただ一つ公務の時間が空けばアスランまで参加するということを除いては。
「ヘダーヤトの講義はなかなか受けれるものではない。俺も学びたいのだ」
と曇りのない笑顔で言われると、否といえないアセナである。