きみに光を。あなたに愛を。~異世界後宮譚~
第8話:老師父の胸のうち。
「さぁて今日はこの位にしておきましょうか」
ヘダーヤトは午後からたっぷり時間をかけた講義の終了を告げた。
第三位皇妃の宮。
中庭の東屋に西日が差しはじめていた。
カルロッテとアセナの二人もほっと息をつく。
「今日のお話もとても感動いたしました。詩にあれほど深い意味があるなんて思いもよりませんでした。陛下がおられないなんて残念ですわ」
カルロッテはリボルから茶を受け取りながら言った。
「左様でございますな。しかしながらご公務とあれば仕方ありますまい」
ヘダーヤトは自慢の白鬚をゆるゆると撫で、茶をすする。
多種にわたる分野の講義をするのは骨が折れることではある。が、カルロッテはともかく、学問に触れることがなかったアセナの学習欲は教師としては心地の良いものであった。
海綿のように教えれば教えるだけ吸収していく様子が分かるのだ。
「でも私は陛下がいらっしゃると緊張してしまいます。たまにはこう先生とカルロッテ様だけで、というのも嬉しいです」
アセナは菓子を口に入れ憮然としながら言う。
度々顔を合わすようになり、アスランとアセナとの距離が物理的にも精神的にも近くなっていた。
皇帝であるということを除いたとしても、アセナは一人の男性としてアスランに惹き付けられつつあった。
容姿も。声も。仕草やふとした表情に気持ちが揺れるのが分かる。
乳香とかすかに混じるアスラン自身の匂いはアセナの心をひどく乱すのだ。
複雑な表情で何も言わず菓子を頬張るアセナを見て心の内を察したのか、カルロッテは何も言わずコロコロと笑った。
「おや」
ヘダーヤトはテーブルの上に教材を片付けながらふと目を留めた。
「これはアセナ様の書かれたものですか?」
アセナが開きっぱなしにしていた帳面だ。今までのヘダーヤトの講義を覚書程度で書き記してある。
「先生にお見せするほどのものではありませんが……」
アセナは赤面しつつ帳面をめくった。
字を習い始めて未だ四年。大きさの揃わない稚拙な字が並ぶ。
(まだ字は下手くそだが……おぉご自身の名前だけはお上手だ。ん……この筆跡……)
「アセナ様。アセナという文字は他に比べてとても達筆ですが、どなたからかお習いになられたのですか?」
「まだ子供のころ、ウダの郷で出会った貴人に教えていただいたのです。その時いただいたお手本を見ながら必死に練習しました。残念ながら流暢に書けるのは自分の名前だけですが……」
「ほう。手本どおりに練習なさったのですな。大変お上手です。……奇妙なことと思われるかもしれませんが、この筆跡どこかで見覚えがありましてな」
帳面の名前の部分を凝視する。
「私の知人の文字に良く似ております。アセナ様にご教授しなさった貴人のお名前はお分かりですか?」
「たしかダイヴァ様とおっしゃっていらっしゃいました。背の高くお若い方でした。武人のような立派な太刀を佩いておられた覚えがあります。子供のころの記憶なので間違いがあるかもしれませんが。ヘダーヤト先生、どなたかお分かりですか?」
「ダイヴァ……」
ヘダーヤトは目を閉じ再び白髭を撫ぜる。
(……やはり間違いないか。これで合点がいく)
「ダイヴァという名前はパシャ帝国の属領コルチュルクに良くある名前です。首都においては珍しい部類のものですが。うぅむ」
(胸のうちに収めておくのが正解であろうの)
納得したかのように一人頷くと、
「……これはちょうど良い機会です。次回は帝国の地理について学びましょう。帝国は広大です。妃として属領・属国を学ぶのも大切なことです」
「わぁ楽しみです!」
ヘダーヤトの講義は何を聴いても深く面白かった。歴史も数学も地理も。
ただ文学は奥深すぎてアセナの教養では理解できない領域であり、今日の講義は正直なところ難解すぎて退屈でもあった。
「あぁ間にあわなかったか」
東屋の外から落胆した声がする。主は確認するまでもない。
側近の文官と武官を1人ずつ連れたアスランである。
公務を終え急いで後宮に来たのだろう。額に薄く汗が浮かんでいた。
三人は深く礼をする。
「ちょうど終わったところですわ。陛下」
カルロッテはアスランに着座を勧め、
「ゾヤーの詩を講義していただきました。あのような解釈法は初めて知りましたわ」
「それは興味深いな。受けられなかったのが残念だ」
腰に佩いていた刀を外し武官に渡しながらアスランはイスに腰掛けた。
「急で申し訳ないのだが、ヘダーヤト師父よ。今から城下へ出ねば成らぬ用ができた。講義の後で疲れているだろうが同行してくれないか。……カルロッテとアセナはどうだ?」
「連れて行ってくださるのですか?」
アセナは思わず声を上げた。
後宮の宮女は基本外出は許されない。
侍女や下女は許可が出れば比較的自由に出入りが出来るが、皇帝の妃(とその候補)たちは年に数回の行事以外では後宮内ですごさねばならない。それ以外ではせいぜい城内を散歩するのが限度だ。
この突然の指名は異例中の異例である。
カルロッテはアセナとアスランの顔を見比べて、ちょっと悩んだふりをしながら微笑んだ。
「私は遠慮させていただきますわ。少し疲れました。アセナをお連れくださいな。アセナは御城下を見たことがありませんもの」
「カルロッテ様?!」
アセナはカルロッテにだけ聞こえるように小さな声で抗議した。勘のいいカルロッテだ。アセナの動揺する心中を感じ取ったのだろう。
気を利かせてやったのよ? と目が語っている。
象牙の親骨に繊細な彫刻の施された扇子を広げ、口元を隠してカルロッテは囁いた。
「後で話を聞かせてちょうだいね。楽しみにしてるわ」
「ええ?!」
アセナは狼狽した。
アスランは二人の様子をさも愉しげに見つめ、
「では一時間後に迎えをやる。公式ではない外出だ。目立たぬ格好をしておいてくれ」
とアセナの額にそっと口付けをした。
「……!!」
「またあとで」
からかうように笑い、ゆるりと乳香の香りを残してアスラン一行は宮を出た。
ヘダーヤトは午後からたっぷり時間をかけた講義の終了を告げた。
第三位皇妃の宮。
中庭の東屋に西日が差しはじめていた。
カルロッテとアセナの二人もほっと息をつく。
「今日のお話もとても感動いたしました。詩にあれほど深い意味があるなんて思いもよりませんでした。陛下がおられないなんて残念ですわ」
カルロッテはリボルから茶を受け取りながら言った。
「左様でございますな。しかしながらご公務とあれば仕方ありますまい」
ヘダーヤトは自慢の白鬚をゆるゆると撫で、茶をすする。
多種にわたる分野の講義をするのは骨が折れることではある。が、カルロッテはともかく、学問に触れることがなかったアセナの学習欲は教師としては心地の良いものであった。
海綿のように教えれば教えるだけ吸収していく様子が分かるのだ。
「でも私は陛下がいらっしゃると緊張してしまいます。たまにはこう先生とカルロッテ様だけで、というのも嬉しいです」
アセナは菓子を口に入れ憮然としながら言う。
度々顔を合わすようになり、アスランとアセナとの距離が物理的にも精神的にも近くなっていた。
皇帝であるということを除いたとしても、アセナは一人の男性としてアスランに惹き付けられつつあった。
容姿も。声も。仕草やふとした表情に気持ちが揺れるのが分かる。
乳香とかすかに混じるアスラン自身の匂いはアセナの心をひどく乱すのだ。
複雑な表情で何も言わず菓子を頬張るアセナを見て心の内を察したのか、カルロッテは何も言わずコロコロと笑った。
「おや」
ヘダーヤトはテーブルの上に教材を片付けながらふと目を留めた。
「これはアセナ様の書かれたものですか?」
アセナが開きっぱなしにしていた帳面だ。今までのヘダーヤトの講義を覚書程度で書き記してある。
「先生にお見せするほどのものではありませんが……」
アセナは赤面しつつ帳面をめくった。
字を習い始めて未だ四年。大きさの揃わない稚拙な字が並ぶ。
(まだ字は下手くそだが……おぉご自身の名前だけはお上手だ。ん……この筆跡……)
「アセナ様。アセナという文字は他に比べてとても達筆ですが、どなたからかお習いになられたのですか?」
「まだ子供のころ、ウダの郷で出会った貴人に教えていただいたのです。その時いただいたお手本を見ながら必死に練習しました。残念ながら流暢に書けるのは自分の名前だけですが……」
「ほう。手本どおりに練習なさったのですな。大変お上手です。……奇妙なことと思われるかもしれませんが、この筆跡どこかで見覚えがありましてな」
帳面の名前の部分を凝視する。
「私の知人の文字に良く似ております。アセナ様にご教授しなさった貴人のお名前はお分かりですか?」
「たしかダイヴァ様とおっしゃっていらっしゃいました。背の高くお若い方でした。武人のような立派な太刀を佩いておられた覚えがあります。子供のころの記憶なので間違いがあるかもしれませんが。ヘダーヤト先生、どなたかお分かりですか?」
「ダイヴァ……」
ヘダーヤトは目を閉じ再び白髭を撫ぜる。
(……やはり間違いないか。これで合点がいく)
「ダイヴァという名前はパシャ帝国の属領コルチュルクに良くある名前です。首都においては珍しい部類のものですが。うぅむ」
(胸のうちに収めておくのが正解であろうの)
納得したかのように一人頷くと、
「……これはちょうど良い機会です。次回は帝国の地理について学びましょう。帝国は広大です。妃として属領・属国を学ぶのも大切なことです」
「わぁ楽しみです!」
ヘダーヤトの講義は何を聴いても深く面白かった。歴史も数学も地理も。
ただ文学は奥深すぎてアセナの教養では理解できない領域であり、今日の講義は正直なところ難解すぎて退屈でもあった。
「あぁ間にあわなかったか」
東屋の外から落胆した声がする。主は確認するまでもない。
側近の文官と武官を1人ずつ連れたアスランである。
公務を終え急いで後宮に来たのだろう。額に薄く汗が浮かんでいた。
三人は深く礼をする。
「ちょうど終わったところですわ。陛下」
カルロッテはアスランに着座を勧め、
「ゾヤーの詩を講義していただきました。あのような解釈法は初めて知りましたわ」
「それは興味深いな。受けられなかったのが残念だ」
腰に佩いていた刀を外し武官に渡しながらアスランはイスに腰掛けた。
「急で申し訳ないのだが、ヘダーヤト師父よ。今から城下へ出ねば成らぬ用ができた。講義の後で疲れているだろうが同行してくれないか。……カルロッテとアセナはどうだ?」
「連れて行ってくださるのですか?」
アセナは思わず声を上げた。
後宮の宮女は基本外出は許されない。
侍女や下女は許可が出れば比較的自由に出入りが出来るが、皇帝の妃(とその候補)たちは年に数回の行事以外では後宮内ですごさねばならない。それ以外ではせいぜい城内を散歩するのが限度だ。
この突然の指名は異例中の異例である。
カルロッテはアセナとアスランの顔を見比べて、ちょっと悩んだふりをしながら微笑んだ。
「私は遠慮させていただきますわ。少し疲れました。アセナをお連れくださいな。アセナは御城下を見たことがありませんもの」
「カルロッテ様?!」
アセナはカルロッテにだけ聞こえるように小さな声で抗議した。勘のいいカルロッテだ。アセナの動揺する心中を感じ取ったのだろう。
気を利かせてやったのよ? と目が語っている。
象牙の親骨に繊細な彫刻の施された扇子を広げ、口元を隠してカルロッテは囁いた。
「後で話を聞かせてちょうだいね。楽しみにしてるわ」
「ええ?!」
アセナは狼狽した。
アスランは二人の様子をさも愉しげに見つめ、
「では一時間後に迎えをやる。公式ではない外出だ。目立たぬ格好をしておいてくれ」
とアセナの額にそっと口付けをした。
「……!!」
「またあとで」
からかうように笑い、ゆるりと乳香の香りを残してアスラン一行は宮を出た。