[短編] 時の雨は優しい虹となる。
「君、名前はなんて言うの?」
初めて自分が変だと思った。何故だか、目の前にいる彼を怖いとは思わなかった。むしろ話してみたいと思った。
私の質問に彼は戸惑っているようで、ほんの少しだけ考えてからこう言った。
「僕の名前は時雨(しぐれ)。時の雨だよ。君のためにやって来た」
「私の、ために?」
彼の言っていることが分からない。理解できない。
それでも、彼は私を真っ直ぐに見つめている。顔は狐のお面で見えないけれど、そんな気がした。
「そうだよ。僕は時の雨、時間を支配する者。君の後悔を消すために来た。君のため、時間をまき戻してあげよう」
「で、でもっ。私は後悔なんて、」
してないと言いたかったけれど、急に昔の記憶が帰ってきた。
それは、失恋の記憶。初雪が降りつもる冬の日。遠ざかってゆく大谷くんの背中。当時の私は、別の意味で心の底が冷えていく。そんな気がした。
だけど、今は違う。未練なんてない。好きだなんて気持ちもない。
だから、もういい。大谷くんが誰と結ばれたってかまわないよ。私には関係ないんだから。
「後悔、あるんでしょ。後悔してるんでしょ。好きだった人の事で」
私は、違う。彼の言うことと私は違う。
それなのに、彼はどうして堂々とそんなことが言えるんだろうか。分からない。彼が、分からない。彼から見える私の心さえも。
「好きな気持ちはない。ただ、遠ざかる彼に言いたいことを言えなかった。それを悔やんでいるのだろう?」
あ、そうか。私だけが違ったんだ。
彼の心は見えないけど、彼から見える私の心はちゃんと見えているんだ。私という私の心が彼にはちゃんと見えてるんだ。
瞳の奥がじわりと熱くなる。顔も見たことないし、彼を知っている訳じゃない。
それでも、知らない赤の他人でも、私のためにそう言ってくれるのがすごく嬉しかった。
「そうだよ。ちゃんと自分の言葉で思いを伝えられなかった。それが悔しいよ」
「なんで、どうしてって言いたかったの。理由が聞きたかったの。そしたらきっと忘れられるから」
「過去に戻りたい。後悔を消したい。お願い。辛くて苦しいよ」
言葉がとめどなく溢れる。自分を、声を、抑えることが出来ない。言葉にしないと壊れそうで。
そんな私の隣に彼が座り、うなづきながら私の話を聞いてくれていた。
「じゃあ、君を過去に戻してあげるよ。もうすぐ時間の扉が開くから」
言いたいことを言い切って、落ち着いた私に時雨くんはそんなことを言った。
その直後、私は驚いた。彼のパジャマの裾をぎゅっと掴み、すがるような思いで答える。
「本当に、戻れるの?」
私の問いかけに、時雨くんは見えぬ青空をゆっくりと見上げて答えた。
「うん。戻れるよ」
そう答えてくれた彼は見上げたまま、こう聞いてきた。
「信じられない?」
私は下を向いて、汗が染みる手を見つめた。
私だって後悔が消せるなら、過去に戻りたいと思う。でも、本当に戻れるんだろうか。
いや、もし戻れたとして、私に後悔を消すことが出来るのか。ちゃんと言いたいことを言葉にできるんだろうか。
分からない。何も分からない。
けれど、一つだけ分かる。横から見える時雨くんの瞳は本物で、嘘なんかついてないこと。
覚悟を決めた私は汗が引いた手に力をこめて、時雨くんのほうを見る。私が話しかけようとした時、時雨くんがいきなり私を見て頭をそっと撫でた。
「でも、時間の扉が開くのはあと二日だから、たくさん悩めばいいよ」
そう言った彼は立ち上がり、まだ降り続ける雨の中へ歩き出した。雨に濡れちゃうよと言う前に、すでに彼の肩は濡れてしまっていた。すぐに傘を出したかったけれど、自分の荷物を見たとたんに持っていないことを思い出す。
「それじゃあ、僕はこれで。二日後、またここで結明のことを待ってるから」
風邪、引かないといいけど。時雨くんは妖怪とかじゃなくて、普通に人間だと思うし。
そんなことを思っていた私は、彼が私の名前を呼んだことに気付かなかった。
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