俺様副社長に娶られました
『沙穂、好きな奴とかいないのか?』


わたしのこと心配してくれてたけど、好きな人なんて……。


『君が両目を瞑っても、俺には丸見えだ』


ボン! っと頭に浮かんできた回想シーンに、せっかくセットしてもらった髪型をぐしゃぐしゃに掻き乱したい衝動が芽生え、胸を押さえることでなんとかこらえる。


「お客様、ご気分が優れないのですか?」


すると、真横を通りかかった店員さんに心配そうに声をかけられ、わたしはピタリと動きを止めた。


「だ、大丈夫です! すみません……」


胸元でギュッと握っていた拳をゆっくりと開く。顔が熱くなってしまったので、両手を振って頬を冷ましつつ、妄想を追い払う。

もう会うこともない相手で、あの一夜はわたしの歴史の中で真っ黒な一ページ確定なんだけど、わたしにとって男性といえば、お父さんと慎ちゃんと、蔵人のおじちゃんたち、それにときどき遊びに来る蔵人のお孫さんとか、ファミリー感満載なラインナップ。
男性経験はおろか、付き合ったことも、キスもないんだもの……。


『もう少しゆっくりして行けよ』


あの人、何者なんだろう?
ゆっくりして行け、ってことは、このホテルの関係者だったりして。気軽にスイートに泊まれるんだもの、もしかしたらすごく偉い人なのかもしれない。

わたしが酒処天の川で酔い潰れてしまって、たまたま居合わせたのか、もしくは千鳥足でここまで歩いて来た行き倒れのわたしを介抱してくれた、とか?


「すみません、大変お待たせいたしました」


すっかり考え込んでいたわたしは、頭上から降ってきた声に反射的に顔を上げる。


「川原沙穂さん、ですよね?」


目が細く、銀色のフレームの華奢な眼鏡を掛けた男性が、ぽかんと見上げるわたしに対してとても丁寧にお辞儀をした。


「あ、はいっ」


わたしは急いで腰を浮かせる。

この方が、天川創平さん?
記憶の中の物静かな少年の、面影があるようなないような……。たしかすごく背が高かった気がする。成長したら……うん、こんな感じかな?

お父さんには三十三歳って聞いたけど、もうちょっと上に見える。
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