俺様副社長に娶られました
初めてを、行きずりの人と経験してしまうなんて……。しかも全く記憶がないなんて。
仮にも結婚前の身でありながら、なにやってるんだろう、わたし。


「はあ……」


掴まっていた手すりに頭をガツンとぶつける。
隣の人の目が見開かれ、いよいよヤバい人を見る緊迫した目の色に変わったとき、ちょうど実家の最寄り駅で停車した。

わたしは怖がらせてしまったことを申し訳なく思いながら、さっきの衝撃で赤くなったであろうおでこを摩りながら電車を降りた。

家に着いたのは、九時近かった。

長年の風雨や経年劣化でくすんだ蔵の扉の前にぶら下がる、茶色くなった杉玉が目印の川原酒造。
ここがわたし、川原(かわはら)沙穂(さほ)の実家だ。

杉玉とは、杉の葉をボールみたいな綺麗な丸の形に作ってあるもので、新酒の完成を知らせるいわば酒蔵のシンボル。
完成したときは緑だった葉は吊るしているうちに徐々に茶色くなってくる。これが新酒の熟成具合と重なり、伝えるのに役立っていると言われている。

けれどもうちのは相当古く、もう何年も同じものを吊るしている。

酒蔵自体の従業員は、農閑期に来てくれる季節労働のおじちゃんたちを含めて六人。
社長のお父さんが杜氏も兼ねている小さな酒蔵だけれど、明治時代からの伝統を受け継いだ代表銘柄【純米吟醸 北極星】は、お米と水にこだわった純米酒で根強い人気があり鑑評会で賞を取ったこともある。

古くからこの地域で親しまれてきたけれど、わざわざ遠くからうちの直売所まで買いに来てくださるお客様もいる。
わたしはその直売所で働いている。

けれども、お父さんで六代目の川原酒造は、正直なところかなり窮地に追い込まれている。お父さんは杜氏としての腕はたしかだけれど、経営者には向いていないのかもしれない。


「沙穂、おはよう」


蔵の隣にある住まいとなっている古い家屋の玄関の引き戸をこっそり開けた瞬間、そこにお母さんが立っていた。


「お、おおお母さん」


軽く仰反るわたしに、お母さんは眉間に皺を寄せる。


「連絡くらいしなさいよ。帰って来ないから心配したのよ?」
「ごめんなさい……」
「で、どうだった? 酒処天の川は」


わたしは後ろ手に引き戸を閉め、たたきで靴を脱いだ。
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