【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡

ふとまだ付き合っていた頃の記憶が蘇ってくる。

「どうした、具合でも悪いか?」
「・・・ううん、別になんでもない」
「はい嘘つき。さ、今日はおうちデートに変更!ほら、手を話すんじゃねぇぞ」

お互い仕事が忙しくて、久しぶりのデートの日。疲労が積み重なり朝から体調に違和感があったが、久々のお出かけということで何も言わずに待ち合わせの場所まで言ってのだ。しかし、待ち合わせ場所に着いた途端、私の体調が優れないことをすぐに春人は察してくれたのだ。薬を飲んでいたから体自体はきつくはなかったから何故バレたのだろうと思っていた。

それくらい私が甘えていられる環境を作ってくれていたのに、その優しさを突き放したのは私の方。

「結局、会社の後輩にも振られた。俺に1人で舞い上がって、馬鹿みたいだよな」

自分に呆れるように乾いた笑いがエントランスに響く。会社の後輩、と言うのはあの日言って
いた「好きな人」のことだろうか。私は横に首を振った。

「私が悪いよ。他に好きな子ができちゃっても当然だと思う」

「だからもう、気にしないで」そう言おうといた時、春人がその場から立ち上がった。
そして私の正面に移動して、向き合う形になった。自然と春人を見上げる形になる。

「だから、」

ショッピングモールでは逸らしてしまった顔を、今度はしっかり合わせるように前をむく。視線が合わさった時、春人は覚悟を決めたような、そんな声色で告げる。

「もう一度、ちゃんと奈央とやり直したい」

そのまま彼は続ける。

「ずっと考えることは奈央のことばかりで、これからもずっと一緒に過ごしたい。好きなんだ」

「だからやり直したい」と願うように、春人は言った。ゴクリと息を飲む。真っ直ぐなその瞳に心が苦しくなった。春人のことを頭から消し去っている、その間でも彼は私のことを思ってくれていたのだ。それでも今から春人の気持ちを踏みにじらないといけない。無下にしないといけない。今から己がやろうとしていることに、目頭がジワジワと熱を持ち始める。

しばらく沈黙を貫いた後、私は静かに口を開いた。

「・・・友達が最近教えてくれたことがあるの」
「友達?」
「うん。人間は何のために生まれてくるのか?って聞いてきたんだよね」

最近知り合ったばかりの、春人と比べればうんと浅い付き合いだけれども、自称天才小説家は教えてくれたのだ。
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