【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
離れていく背中を見つめながら物思いにふけっていると、現実を知らせるように母親からの連絡の通知の効果音が鳴る。アプリを開いて中身を確認すると、またいつもの内容が記されてあった。

“結婚はまだしないの?”と、表示されてある文字にため息が溢れる。

ちなみにからかいの意味ではなく、本気でそう言っているのである。すぐに「今は仕事が忙しいの」と返事を返すと、残念がるような涙を流したスタンプが返ってきた。

こうして結婚を急かされるようになったのは半年くらい前だろうか。母の姪、つまり私のいとこにあたる人物が去年可愛い女の子を出産したのだ。それから母は毎日送られてきた動画を見て癒されながら、早く孫が欲しいのだと一人暮らしをしている私にマメに連絡がくるようになった。それこそ半年前はお付き合いしている人がいるのは母にも伝えていたが、別れて現在フリーで結婚から遠ざかっている現在は知らせていない。知れば母のことだから見合いの話を持ちかけてくるのではないかと、予想しているからである。だからしばらく実家に帰っていない。そろそろ感づかれそうだ。

「結婚って、相手すらいないのに・・・」

恋愛に関しての興味を失っている今の私が母を喜ばせることはまだ遠い日の未来である。「お隣さんの加藤さんのところもお孫さんが生まれたらいいのよ」とまたもや母から孫をせびる連絡がきた。いくら恋愛気質ではなくても、結婚願望はあるし、いつかは子供が欲しいと思っているのだ。しかし、今はそっとして欲しい気分である。おめでたいね、とスタンプを押すだけ押し、携帯を伏せた。同時に、目の前でカチャンという陶器と陶器があたる音が聞こえる。

「橋本さんは今フリーなんですね」
「き、聞こえていましたか・・・」

カウンターの奥に再び桐山さんが立っていた。先ほど帰ったお客さんの食器を引いたのであろう、ティーカップを手に持っている。独り言が聞こえていたとは思いもせず、こっ恥ずかしくなって「お恥ずかしい」と照れ笑いを返す。

「母が最近結婚はまだかと連絡がくるようになって」
「そうなんですか。お仕事もありますし、両方とも充実させるのは大変ですよね」
「・・・ですよね。どうもそんな気分にもなれなくて」

別に仕事人間なわけではないが、恋愛をしたい気分でもない。もはや抜け殻状態の私にはこのコーヒー1杯で幸せになれるくらい、幸せの沸点が低くなっている。でも、それでもいいかと現状に満足している時点で、恋人すらできる未来は遠いだろう。ごめんなさいお母さん。すぐに孫の顔を見せることができなくて。

食器を片して戻ってきた彼は、「そういえば」と声をかけてくる。
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