愛してる 〜必ず戻る、必ず守る〜

2話

 11月21日。

 加波子はいつもより少し小綺麗な服装をして出社する。古い小ぶりのビニール傘を持って。

 更衣室。加波子の肩をポンと叩いたのは、加波子の先輩・友江ともえだった。友江は加波子の唯一の先輩であり、気さくで明るく、人望の厚い人物である。席は隣。お昼はいつも一緒。

「おはようございます、先輩。」
「おはよー!どーしたの今日?いつもよりお洒落しちゃって。まさかのデート??」
「違います。ただ友達と会うだけです。」
「そーよねー。カナの頭の中に『恋愛』って言葉はないんだもん、ねー。」

 いつものように、気さくで明るい笑顔でからかわれる加波子。加波子はそんな友江が大好きだった。

 終業。空は晴れているが、加波子は傘を持つ。近くのデパートに行く加波子。慣れない化粧直しをした後、お菓子売り場へ向かう。

 そして茶菓子の入った袋を持ってデパートから出てきた加波子。スマホをバッグから取り出し地図を開く。『相原工場株式会社』に行くためだ。

 事前に調べ、実在することがわかっていた。しかしそこに、傘を返したい人、会いたい人、亮がいるとは限らない。賭けだった。

 地図を頼りに道を進む。気づけば目の前に工場があった。工場まではとても簡単だった。小さい看板もあり、間違いなさそうだ。

 奥に2階建ての建物が見えた。立派とは言い難い、年期の入った建物が。一通り構内を見渡した後、加波子は深呼吸をする。

「…よし!」

 気合いを入れて門を入るが、内心は緊張していた。建物には横付けされた階段があり、それを上る加波子。

 引き戸を前にし加波子は緊張する。恐る恐る扉を開くと、目の前には簡易な受付兼棚というような、その奥には事務所のような、右奥には低くて長いテーブルとソファが置かれたような。そんな室内だった。

 しかしそこに誰もいない。加波子は声を張る。

「あの!ごめんください!」

 誰も来ない。困惑する加波子。

「誰かいらっしゃいませんか!」

 遠くから声がする。女性の声。

「はいはーい!少々お待ちくださいねー!」

 古き良き昭和時代によく使われていたであろう事務服を着た、陽気そうな50代くらいの事務の女性が現れた。加波子のような若い女がひとり工場に来るのは不自然でしかなく、事務員は加波子に問う。

「どちら様でしょう?ご用件は?」

 そう問われた加波子は緊張の中、我に返る。

「先日、こちらの従業員の方に傘を貸していただいて、それを返しに参りました。これ皆さんで召し上がってください!」

 加波子は茶菓子を渡す。言うべきことは言った、やるべきこともやった、と思った加波子だった。しかしまた事務員に問われることになる。

「それはまぁ、わざわざありがとうございます。で、誰が貸したのかしら?」
「え?」
「え?」

 加波子はその時初めて気がついた。名前を知らない。致命的だった。

「わかりません…。」
「それは困ったわねぇ。」

 事務員の後ろから、社長と呼ばれる人物が現れる。背は低く、少々ふくよかな体形をした60代くらいの人物だった。

「どーした、何かあったか?」

 加波子は社長に会釈をする。事務員が社長に説明をしていると、加波子の背後の扉から従業員と思われる男性が1人入ってきた。

「お疲れ様でーす。」

 加波子はビクッとする。すると従業員がぞくぞく入ってきた。どうしていいかわからず、落ち着かない加波子。しかし加波子は気づく。従業員は皆、傘を貸してくれた人、亮と同じ作業着を着ている。

 その従業員たちは右奥の休憩スペースに座る。煙草を吸う人、喉を潤す人、スマホをいじる人。皆それぞれ好きなことをしている。直視はできないが、あの雨の日に会った人を加波子は探す。見当たらない。社長が声を掛けてくれた。

「おーい。誰かこのお嬢ちゃんに傘貸したやついるかー?」

 静まる休憩スペース。誰も何も知らないようだ。行き場のない空気だけが溜まる。すると1人の従業員が言う。

平野(ひらの)先輩じゃないっすか?まだここに来てないし。」

 加波子の背後の扉が開く。そして加波子の背後に、背が高めの、ひとりそこに居る誰か。

「おー亮。お前か?このお嬢ちゃんに傘貸したのは。わざわざ返しに来てくれたんだ。礼はちゃんと言うんだぞ!」

 社長は亮に声を掛ける。加波子は後ろを振り返る。亮に加波子は見惚れる。

「あ…。」

 そこには傘を貸してくれた人、ずっと探した人、ずっと会いたかった人がいた。だが亮は何も言わない。

 目が合うふたり。亮に見惚れる加波子、無表情な亮。正反対なふたり。加波子は目的を思い出す。加波子は手に持つ傘を、亮に差し出した。

「これ、ありがとうございました。本当に助かりました。」
「どうも…。」

 亮には顔にも言葉にも情がない。傘を受け取った亮は、すぐ近くにある傘立てに放り投げるように入れた。その傘立てにも年期が入っており、いつから置いてあるかわからないような傘たちの中に、その傘が飲み込まれた。

 それを見た加波子はショックだった。加波子にとって、それは大事なもの、大切なものだった。あの夜はそれに暖められ、今日までは暖めてきたもの、ふたりを繋ぐものだった。

「よーし!今日はここまでだ!みんなお疲れ!」
「お疲れ様でしたー!」

 社長の掛け声で皆一斉に動き出す。今度は扉から従業員たちがぞくぞくと出ていく。すかさず亮についていき、声を掛ける加波子。

「ヒ、ヒラノさん?」

 亮は加波子を見ることもなく、足を止めない。スピードも落とさない。

「もうお仕事終わりなんですよね。よかったらこれからご飯食べに行きませんか?」

 加波子にとっては、自分でも驚くほどの発言だった。ドラマなどでよく使われる台詞。まさか自分が使う時が来るとは思ってもいなかった。加波子は初めて、誰かを何かに誘った。

「あー俺金ないし。」

 誘った手前、引き下がりたくない加波子。無い知恵を振り絞って言う。

 「じゃあ、コーヒー飲みませんか?確か近くに自販機のある公園があったはず…。」
「あの、どこまでついてくるんですか?」
「え?」
「ここ、更衣室。」

 亮はすぐ横にある扉を指差した。

「あ…。じゃあ、門で待ってます。」

 完全に亮のペースに飲まれる加波子。帰っていく他の従業員たちにジロジロ見られるも、加波子はじっと待つ。15分経った。

 加波子は思っていた。亮は加波子を諦めさせ、帰らせようとしている。だからわざと出てこないのだろうと。悲しい想いが生まれる。

 それでも加波子は門の前。亮を待った。


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