禁猟区のアリス


「へたくそ」

通り過ぎる間際、ウサギが黒猫に悪態をついた。


「あんたよりはマシよ」

黒猫が一瞬顔をしかめてから、ウサギの隣に座った。


「サボってないで仕事をしろよ」

「あら。じゃあもう一曲弾こうかしら」
黒猫が答えると、ウサギは肩をすくめた。


「その前に、アリスに紅茶のおかわりだろ。もう飲み終わってるじゃないか。黒猫、君の次のセリフは、新しい紅茶はいかがですか?だ」

ウサギがわたしのカップを指さした。ウサギの言うとおり、わたしのカップはいつの間にか空になっていた。


角砂糖ひとつはパパの紅茶。

香りの良いその飲み物を、わたしは飲んだことがない。でもカップの中には、何も入っていない。


黒猫は黙って空のカップを銀のお盆に乗せた。

ウサギを見ることもなく、無言。

ウサギは長い黒髪の後ろ姿を見送って、やれやれと呟いた。


「あの紅茶……」

それが不思議だった。指先は、まだ冷たい。足は、氷の上を歩いているみたいだ。


「君が飲んだんだろう」

一呼吸置いて、ウサギが言った。

「だって君はいつも、紅茶には角砂糖をひとつだったじゃないか」


違う。紅茶に角砂糖を入れるのは、パパだけだ。

ママはレモンティー。カルナは甘いミルクティー。

わたしはそのどれも、飲んだことがない。


あの楽しそうなおやつの時間を思い出して、お腹がぐぅっと音を立てた。卑しい顔をするなと怒る、パパの声が聞こえた気がした。

食べたら、いけない。

わたしはとっさにお腹を押さえて前屈みのまま、おそるおそるウサギを見上げた。

ウサギは、やたら大きなサンドイッチの乗った皿に視線を向けて、「食べたければどうぞ」と言った。


「僕は、ティータイムには薄いキュウリのサンドイッチしか認めないけど」

そう言われてわたしは、伸ばしかけた手を止めた。
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