もうそばにいるのはやめました。
母さんの好きだった曲をやっと弾けるようになったんだ。
パッヘルベルの「カノン」っていうんだよ。去年のコンクールで知らない女子も演奏していて上手だったんだ。
あのときのコンクールは父さんと母さんも観に来てくれたよね。
……そんな思い出話をしたかっただけなのに。
母さんのことを嫌いになったんだと思った。
たぶん、俺のことも。
必然的に会話が減っていった。
ときどき父さんが帰宅しても、少し寝たり着替えたりしたら出て行ってしまう。
だから本当に久し振りなんだ。
こうやって顔を合わせるのは。
ましてや一緒に食事なんて。
「……ここに、帰りたくなかったんだ」
父さんは部屋を軽く見渡しながら、痛々しそうに目を細めた。
「あいつの……母さんとの思い出が、ありすぎるから」
まぶたのふちからあふれた涙は、こぼれることなく瞳全体を濡らしていく。
やがて、まつ毛の生えぎわをつやめかしていた涙に、眼光が吸収されていった。
こんな父さん、初めて見た。
まるで今でも愛してるような……。
「嫌いになったんじゃ……」
「母さんを?嫌いになるわけないじゃないか」
「で、でも前に……『あいつの話はするな』って……」
突き放されたみたいで怖かった。
こっちを見てもくれない父さんなんか嫌いだ!って幼いながらに反抗していた。