悪役令嬢だって恋をする
11、アベルの試練
 

 殴られた頬が痛い。アベルの護衛である普段は寡黙な男ノア・スタンダールが、感情を抑えてはいるが若干動揺している。

 アベルは黙ったまま父のいる執務室へ歩く。護衛であるノアは当然何も言わない。

 ラシェルを組み敷いていた(ように見えた)現場をバッチリ見たのだ。

 いつもはアベルの味方であり、年の離れた兄のような存在だったノアでも言葉につまり、だんまりを決め込むしかない状況なのだ。


 そうした状況を作り出したのは紛れもなくアベルだ。

(気が、重い…。ヴィル叔父上にも失望されるのか? 襲ったらいいと言われたが、ヴィル叔父上は冗談なんだ。俺を信用しているからこその冗談。
 …本気でラシェルを襲ったら、絶対に俺を許さないだろう…)

 事態は最悪になっており、現在頬も痛い。重くなる足どりを気合いだけで跳ね除け、前を歩く。


 しばらくして普段は絶対に話しかけてこないノアがアベルに声をかけてきた。


「アベル様」

「…なんだ?」

「先に頬を冷やしてから執務室へ参りましょう。陛下も…あの状況では手加減出来なかったのではと感じます」

「腫れ上がったら、王太子としては残念な顔になるからか?」


 呆れ笑いの顔をするアベルに、ノアも優しく微笑んだ。


 近くにある庭園にアベルとノアは向かう。王宮には大小様々な庭園がある。
 執務室に行くまでのこの小さな庭園はよく叔父であるヴィルヘルムが座っている。

 王族の住まいから執務室までの通路でいうと一番遠回りになるが、ヴィル叔父上は昔からこの通路が好きだった。

 アベルがまだ小さな頃、それこそヴィルヘルムとティーナが運命的な再会をはたしていない時まで遡る。

 アベルはいつもこの通路を選ぶ、大好きな叔父ヴィルヘルムに理由を聞いていた。


 ***


『ヴィル叔父上、この道は遠回りだよ?』

『知っている。嫌ならついてこなくていい』

 大きな背中は立ち止まることなく、ゆったりとした足どりで回廊を進んでいく。

『違うよ、嫌じゃない! なんでかな?って思っただけ』

『思い出だからだ』

『思い出? エルティーナ様の?』


 ヴィルヘルムの前世の話は、本人からではなく分厚い本で知った。その本の題名は〝白銀の騎士と王女〟である。
 ボルタージュ王国に生まれ、この物語を知らぬ者はいないと断言できた。もちろんアベルも知っている。

 本の恋愛部分の内容は、主に女子が熱烈に好きだが、男子は間違いなく白銀の騎士の強さに惹かれる。

 アベルも例外なく、他を圧倒する騎士としての実力があり、騎士団長も敵わないとされる剣技をもつ白銀の騎士の大ファン。

 それが憧れの叔父上の前世だったと父から聞いた時は、ワクワクが止まらず興奮し過ぎて夜が眠れなかったほどだ。

 そして史実を元に書かれた〝白銀の騎士と王女〟の物語の正解と間違いは、近しい人しか知らないトップシークレット。

 その内緒事を、アベルは全て知っている。

 秘密を知れた自分は、騎士と王女に関わる特別な人間だと思って当然だった。

 だからアベルは言ってしまう。幼いからこそ空気を読めず、本には書かれていない〝彼女の〟本当の名前を。


 驚いた顔も格別に美しいヴィルヘルムは、アベルをまじまじと見つめた。


『あれ? 違う?』

 無邪気なアベルの声が静かな回廊に響く。


『…違わない。……エル様とよく通った回廊だ』

『やっぱり!! だってこの辺りに来るとヴィル叔父上の雰囲気が柔らかくなるから、エルティーナ様と何かあったのかなぁって!!』


『……そうか…』

『そんなに、いい思い出?』


 ヴィルヘルムはアベルの真っ直ぐな問いに、昔の記憶を目の前の景色に差し込んでいく。

 300年前から変わらぬ景色。

 絵画を切り取ったような穏やかな日差しが差し込む回廊。とくに特別な何があった訳ではない、普通の日常。

 普通の日常こそが、護衛騎士アレン(ヴィルヘルム)と王女エルティーナ(ティーナ)には特別だった。

 誰にも邪魔されず二人きりになれるわずかな時間。

 誰よりも近くで日々を過ごした。それでも精巧に作られた陶器人形のように互いの距離は変わらない。決して変えてはいけなかった…。

 思考が少し昔に引きずられ、ヴィルヘルムは苦笑する。


『今の私とアベルのように、一緒に歩いただけだ』

『えーー、それだけ? 本当に??』

 何故アベルが不貞腐れているのか疑問だが、記憶にある彼女エルティーナを思い描く。


『…ぁ、……いや……一度だけ…。眠ってしまった(気絶した)彼女を……腕に抱いて、歩いたな…』

 腕に抱いた愛しい人の温かさと重みが、記憶のひきだしから引き出された。


『うぁぁぁ!!それ最高!!クレールだったらソッコーで筆をとって、黙々と絵を描くだろうな〜。
 ヴィル叔父上とエルティーナ様、絶対に絵になるもんね!!』


 アベルの屈託ない笑顔と賛辞にヴィルヘルムは少し恥ずかしそうにしながらも、当時を懐かしく思いアベルに微笑んだ。

 言葉数が少ないヴィルヘルムだが、この回廊を通る時の甘い顔は攻撃的に胸を撃ち破る。

 まだまだ、わがままし放題お子ちゃまアベルでさえも、胸を撃ち抜かれキュンとさせられるのだ。夢みる女ならイチコロだろう。



 ***



 執務室へは遠回りの回廊。

 ヴィルヘルムにとっても思い出の回廊だが、アベルにとっても思い出である懐かしい回廊。その途中にある庭園のベンチに向かう。

 ノアはすぐに庭園の湧き出る噴水でハンカチーフを水で浸し、アベルに渡す。


「ノア、ありがとう」

「いえ…」

 ハンカチーフを頬に当てるアベルを見ながらも、ノアの顔は能面。ノアは基本感情を表に出さないタイプであるが、動揺や驚き、怒りなどの感情が起こった場合には、さらに完璧な能面になる。

 知らなければ鉄壁の防御になるが、知る人には丸わかりであった。


「……いっとくが、俺はラシェルを襲ってないからな」

「………」


 確信に触れたアベルに、ノアはさらに能面となり、まるで蝋人形のようだ。

 そのあからさまな態度にアベルは溜め息を吐きながら弁解を試みる。ノアは間違いなく一生の付き合いになるだろう。
 その護衛官であるノアに、未来の王としての器を疑われるのはアベルにとってありがたくない。

 父と違いラシェルとの関係を反対していなく、むしろ応援してくれていたノアには、事の顛末を知っていて欲しいと切に願う。


「……ラシェルとは、いつもと同じように口づけしかしてない。久しぶりで、ちょっとだけやり過ぎて止められたくらいだ」

「………」


 やり過ぎとは?口づけくらいであのようにドレスがビリビリにはなりませんよ?とでもいいたいのか、ノアはアベルに聞き返さず、能面顔のままで固まっている。


「…ま、それから、一旦は離れたが、ラシェルがいきなり俺の頭を掴んで胸の谷間に埋めてきたから、役得だと思い、そこは静かに従った。
 そう! フワフワで弾力があり温かく、いい香りを放ち、すべすべで柔らかいラシェルの胸を味わった。
 無論、俺からは一切ラシェルの身体には触っていない。かなり下半身が辛かったが、胸の感触が気持ち良くてギリギリまでは耐えようと思い、必死に耐えていた」

「………」


 ノアの能面が崩れ眉間にシワがよった。


「だから襲ってない!!」

「……」

 これだけ必死に説明しているのも馬鹿らしくなってきたアベルは、投げやりに最後までノアを視界に入れず丁寧に説明していく。



 抱き合うアベルとラシェルの耳に、切迫した侍従や侍女らの声が聞こえてきた事。

 部屋の外の声が気になり、少し顔をあげたアベルは、ラシェルの見事な爆乳から顔を外し、同時に身体も外した事。

 そこで違和感に気づいた事。

 一度ラシェルと離れようとした結果、アベルの着ていた袖に付いていたボタンが、ラシェルの着用していたドレスの宝飾品に引っかかり引きつってしまった事。

 袖に引っかかった薄い繊細な生地のドレスは、強い力に耐えきれず、無惨に引き裂かれてしまった事。

 引き裂く力は案外強く、ラシェルの巨胸を覆い隠す光沢の布地は、無惨に腹まで破れてしまう。公式の場以外ではコルセットをつけていない為、破れたドレスの下の素肌が晒された事。


「で、ラシェルもドレスが破れて驚いたんだろう。体勢を崩し後ろに倒れた。重厚に作られたソファーの縁は凹凸があり硬い。
 俺は咄嗟にラシェルの頭を庇ったから、上手い具合に押し倒しているような体勢になった…。
 その後は、父上が入室してきて問答無用で殴られた…以上だ」


 話終わり、アベルが「はぁぁぁ…」と溜め息を吐いた瞬間、普段は言葉数がほぼないノアが叫んでた。


「……何故!!! その場で事故だとおっしゃらない!!!」

 悲痛なノアの叫びに、アベルは静かに答える。


「突然殴られて、脳が回っていたから現状把握が遅れた。
 俺が冷静に状況を確認した時には、一切ラシェルと関わるなと。元々候補に上がっていた女をあてがうと。父上に言われていた…いや、国王としての命令の時だ」


 運が悪かったではすまないが、もうこのラシェルに対してだけは運が悪過ぎて頭が痛い。

 アベルも薄々感じていたが、ノアはハッキリ「運に見放されております」と呟いたくらいだ。

 普段から穏やかな印象の父があれほど怒気を込めて殴ってきた意味も、王太子としてのアベルは理解している。


「…諦めるのですか?」

「………そうなるだろうな」

「アベル様、私は…」

「俺はすでに…ラシェル本人からはフラれている。いい加減諦めろという神からのお告げだろう」


 ノアに真実を話し、少し気が軽くなったアベルはいつもと同じ表情で笑う。


 それからは二人とも無言で王のいる執務室へ向かった。ラシェルを諦める事が、どれほど己の精神を蝕むのかアベルはまだ本当の意味で理解していなかった。



 両想いのはずの二人には、まだまだ試練が続いていく。



 元気いっぱい常識人のサールベン伯爵令嬢ルビー、そして儚げ風を装う腹黒策士デール伯爵令嬢マルシェ。
 隣国からきたこの女達の相手を、女を知らないアベルへの勉強の一貫としてしばらく共に過ごせと、王自ら進められるのだ。


 アベルは自分が女にどう見られているか重々承知していた。


 最高の地位、金、美しい顔面に鍛え上げた肉体、甘さのある声色、男としての部位の立派さもプラス。嫌味でなく己の価値は知っている。

 だからこそ今までラシェル以外の女性と長く会話するのを絶っていた。

 好かれたいと思わないし、ましてや男として見られたいとも、思わなかった。

 思わなかったのだが、ラシェル以外の女の相手をしないといけなくなる未来は、すぐそこまで近づいてきていた。



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