ふ、のつくしあわせ
好きなひとの、好きになったひとの嫌なところばかりをいくつも見つけて、もしかしたらこれから先何十年もそうなのかもしれないと気づいたとき、喉をふさぐ思いで声が出なかった。

突然ぐらつき始めた足元を取り戻そうと、好きになったところを必死で指折り数えた。


名前を呼んでくれた。

いちじくのはちみつが美味しいと笑った顔が好きだった。

手が大きくて、背が高くて、髪がさらさらで、仕事に一生懸命で、車の運転が下手くそで。

歯磨き粉がなかなか減らなくて、朝はいつも眠そうで、冬でも体温が高くて。


週末は花を買ってくれた。季節の移り変わりを、彼がわたしだけに贈ってくれたものが教えてくれるのが好きだった。


でも多忙さに押し負けて、いまは自分で季節の移り変わりを買っている。


そうしていつしか、彼はわたしの名前を呼ばなくなった。

いちじくのはちみつは惰性で定期契約を解かないまま。忘れ去られたようにドアの前に置いてあるダンボールを、わたしが受け取ることが多い。

大きい手も高い背もいつも遠いし、引っ越してから車の運転は滅多にしていない。

歯磨き粉は相変わらず全然減らないけれど、それは彼が朝無理をして出かけているからで。


本当は高い体温が移ったはずの布団が冷え切ったころ、わたしは置いてけぼりを喰らった気分で目を覚ます。

ぽっかりあいた隣の体温を、今日はあたたかいだろうかと、眠気のせいでうまく回らない頭のまま、いまだに探してしまいながら。


ああ、そうだ。たぶん、置いていかれた気がするんだ。


抱えていたいかつてのまぶしい思い出に、いまの彼に、いまの、ひとり寂しいわたし自身に。


こういう不本意で寂しいひとりきりの朝、苦しい息を詰めながら好きなところを指折り数える度、それがあまりに寒々しくむなしい悪あがきのように思えて、わたしはなにもかもに置いていかれる気がする。
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