あたしが髪を切ったわけ
「ご、ごめんなさい」

「三矢?」

 沸き上がってくる衝動を断ち切るようにあたしは奴にくるりと背を向けた。

 ゆっくりとイーゼルの前に戻る。

 あたしに背を向けさせたのは理性だろうか本能だろうか。

 わからない、わからないよ!

 使い込んだパレットを手にして、筆を持つ。少し落ち着いてきた。

 そして、奴のほうを向いた。

 奴はさっきと同じ姿勢、同じ場所、同じ顔、同じ目であたしを見ていた。

「ごめん、ごめんね。あたしまだわからないよ、わからないのよ。だからお願い、今は、今日だけはモデルでいてくれる」

 あたしの理性を支えているのは手にしている筆とパレットだけだった。

 何て脆いものなんだろう。

「ぼくは・・・いや、別にいいよ。今日は三矢のモデルだ」

 それがどんなに苦しい答えであるかもわかっている。

 重い空気に満たされながらも、たった1つ残された選択肢をあたしは選んだ。

「ありがとう。もう少し胸を張ってくれる?そう、軽く顎を引いて、いいわ、そのまま」

 そこからのあたしたちは、1人の絵描きとそのモデルになりきった。

 それが例え2人が本当に望んだ姿でなかろうと・・・。
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