ビビってません! 〜あなたの笑顔は私の笑顔〜

第41話〜恐怖

 本格的に始まる秋。平日、夜。百合はベッドの上。壁にもたれ座っている。航と電話をしていた。

「おやすみなさい、航さん。」
「おやすみ。また明日な。」

 百合はスマホを枕元に置き、布団に手をかけながら呟く。

「明日も仕事がんばろ…。」

 そのすぐ後、百合のスマホが鳴る。

「…誰?航さん?」

 百合はスマホを手に取る。画面には『母』と表示されていた。百合は恐れ、スマホを持つ手が震える。その震えた手でスマホを少し離れた場所に置く。鳴り止まない音。百合は恐怖に脅える。しばらくして音が止む。留守電のメッセージが入っていた。少しためらい、それを脅えながら聞く百合。

 翌朝。百合は航に、ラインではなく電話をする。

「おはようございます!」
「…おはよ…。朝から…元気だな…。」
「航さん、今夜飲みに行きたいです!」
「…あぁ…いいけど…。そんな話…朝からしなくても…。」
「じゃあ、仕事が終わったら航さんの会社行きますね!」

 元気すぎる百合。何かいつもと違う百合。

「なんだ…あいつ…。」

 違和感のある百合だった。そして、その日が始まった。

 百合は仕事が終わる。化粧直しをすることもなく、工場へ向かう。早く工場へ着いたところで、航の終業時間が早くなることもないのに百合は急いだ。そして航を待つ。

 工場へ着いた百合は、看板に背を向けて立つ。百合は緊張していた。人目など気にしてはいない。自分自身に緊張していた。従業員がちらほらが帰っていく。百合は航を探し、航が見えた。航まで、あともう少し。

「航さん!」

 百合は笑顔で航を呼ぶ。驚く航。

「おい…どうしたんだよ…。今日、朝からずっとそんな調子か?」
「呼んじゃだめでしたか?」
「そうじゃねーよ…。そうじゃ…。」
「じゃあ、行きましょう!」

 百合の流れに飲まれる航。向かった先は、百合のアパートから一番近い居酒屋。

 百合はテンションがただ高い訳ではなかった。百合らしくない、ひどく変に曲がった高いテンション。違和感しかなかった。

「航さん、お疲れ様です。」

 百合は乾杯をしようとした。しかし航はジョッキに触れることなく、テーブルに置いたまま。航は百合に問い掛けた。

「話せ。何があったんだ。」

 航は冷静だった。百合はいつもの百合を装う。そして嘘をついた。

「何もありません。」

 百合は初めて航に、人に、嘘をついた。嘘をつく心の痛みを、百合は知る。

「何もない訳ないだろ。今日みたいなあんたは初めて見た。話せ。」
「航さん。」
「どうした。何があった。」
「もう少ししたら、言います。」
「酒の力を借りないと話せないのか?」

 百合の唇は震えていた。それを見た航は頭を抱える。

「…わかったよ、飲め…。」

 百合が飲んでいる間、航は一口も飲まなかった。そして百合は飲んだ、飲み続けた。いつもよりピッチが速い。そんな百合を見るのがつらい航。しかし百合の話をずっと待っていた。百合は酔う。頭も体もふらついてきた。

「おかわり…。」

 百合が言った後すぐ、航は手のひらでジョッキを上から押さえた。

「もうここまでだ。帰るぞ。」

 ふたりは帰る。百合のアパートへ向かう。百合は足もふらつき、航に支えられながら歩いた。百合の計算通りだった。

「しっかりしろ…あと少しだ…。」
「はい…。」

 アパート、百合の部屋の前。百合はやっとの思いで鍵を開ける。ふたりは部屋に入る。航は百合を支えながら、ベッドに座らせた。ため息をする航。

「…どうしたんだよ今日…何があったんだ…。」

 座っている百合は、うつろな目。そのうつろな目で航を見つめる。百合が別人に見えてくる。航は怖かった。

「今日はもう寝ろ、そのまま寝ろ。明日、無理に仕事に行かなくていい。」

 百合は航の腕を掴んだ。

「航さん…キスして…。」

 航はまたため息。

「飲み過ぎだ。もう寝るんだ、いいな。」

 次の百合の言葉で、航は凍りつく。

「大丈夫…私バージンじゃないから…。」

 うつろな目をした百合は、確かに言った。航は耳を疑った。

 今までの百合の姿が、航の頭の中で回る。百合の笑顔の順序が狂う。何も考えられない。考えることさえ忘れる。航にもあった、限界。

「…なんだよ…。」

 航は百合の手を払い、百合から離れる。航は少しずつ後ずさりをする。

「今まで全部、嘘…でたらめ…。」

 百合は言われたくなかった言葉を、航に言われてしまう。

「…あんた…最低な女だな…。」

 百合の目は変わらない。

「…もう二度と…オレに顔見せるな…。」

 航は静かに吐き捨て、足早に部屋を出ていった。ドアの強く閉まる音がした。その時。既に百合のうつろな目には涙が浮かんでいた。航の出ていった部屋、ひとりになった部屋。百合はひとり、呟いた。

「キス…してほしかったのにな…。」

 ひとつの涙が落ちた。
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