ビビってません! 〜あなたの笑顔は私の笑顔〜

第66話〜コーヒー

 暦の上では春。しかし寒さはまだ厳しい。そんな月の、とある日。

 百合たちは鍋を食べ終え、百合は食器を、航は鍋をキッチンへ運ぶ。慣れっこ、息がぴったり合うようになっていた。缶ビールを切らした代わり、テーブルにコーヒーの入ったマグカップがふたつ。

 航は立ってカーテンを少し開けた。

「こんな寒い時期だった。」
「?何がですか?」

 百合の隣に座る航。そして話し出す。

「1年くらい前、5丁目で発砲事件があったの、あんた知ってるか?」
「はい、ニュースで…。近いから怖いなって…。」
「その被害者の1人が、オレの後輩だ。」
「え…?」
「もう1人は、あんたも知ってるよ。」
「え?私?」
「友江さんの前に急に辞めた優しい先輩。」
「か…加波子(かなこ)先輩?!」
「そーだ。あいつら付き合ってたんだよ。」
「…え…?…え…??」
「驚くのも無理ねぇな。」

 航はコーヒーを飲む。そのコーヒーが暖かいことにありがたさを感じる。

「一緒にいられた時間は短かっただろう。でもあいつらの絆は強かった。」
「加波子先輩が…どうして…?発砲ってことは…。」
「撃たれたんだ、2人とも。」

 百合は言葉を失う。想像もできない話だった。

「名前は(りょう)。どこにでもいそうな男だった。でもあいつには、指をつめた痕があった。一度つめて、戻した痕。」
「それって…。」
「あいつはどこかの暴力団にいた。どこか遠い所から逃げてきたらしい。逃げた先がこの街だった。うちの工場の近くで、首を吊ろうとしてるところを社長が見つけて、そのまま社長が拾った。」

 百合にとって衝撃の強い言葉が、どんどん聞こえてくる。航は百合の手を握る。

「大丈夫か?」
「…はい…。」
「話を続けても?」
「大丈夫です…。」

 百合は航の手のぬくもりで、落ち着きを保とうとする。

「社長が見つけたあいつはひどいもんだったらしい。憔悴しきってて、死体が動いてるみたいだったって…。理由はわかんねぇけど、とにかく逃げたかったんだろうな…。」

 百合は航の話をじっくり聞く。航の話も話し方も、全てを頭に入れる。

「オレは亮の教育係になった。あいつは手先は器用なほうじゃなかったけど、オレの言うことを淡々とこなしていった。自然と仲良くなったんだ。…初めは驚いたけどな、あいつの目。」
「目?」
「あぁ。死んでんのか生きてんのか…わかんねぇような目。凍って何の光も通さない、くすんだ目…。」
「でも…、仲良くなっていったんですよね?」
「根は真面目なやつだった。どこにいたかは知らねぇけど、あいつは手を汚したりはしてない。そんなこと、できるようなやつじゃない。それをあの女もわかってたはずだ。」
「女って、加波子先輩ですか?」
「そうだ。」

 亮という航の後輩はなかなか想像ができない百合。しかし自分の先輩なら知っている。百合はふたりを繋げようとする。

「亮がこの街に来て、5年くらい経った時だったんだ。あいつは拉致られた。でも、昔の連中と関係があったかどうか、何があったのか、今じゃもうわからない。」
「…見つかった…んですよね…?」

 航は百合を見て少し笑った。

「すげーよな、カナコ先輩。オレも工場のやつらと探したんだけど、カナコ先輩が一番先に亮を見つけたんだよ。」
「先輩が…。」

 今度の航は、くすんだ目。

「でも亮は刺された。女を守ったんだ。」

 航のくすんだ目に引き込まれる百合。

「包丁持ってた、カナコ先輩。」
「包丁?」
「何としてでも亮を守りたかった。その為なら手段を選ばない。」

 百合は思わず手を口元に当てる。少しずつ涙が滲み始めた。

「カナコ先輩の叫び声が聞こえて、オレたちも見つけることができた。カナコ先輩はその場で倒れて、亮と2人で同じ病院に搬送された。」
「病院…じゃあその時は何もなかったんですか…?」
「あぁ。仲良く入院してた。でも…。」
「でも…?」
「見舞いに行ったんだ。ちょうどカナコ先輩もいる時だった。いつ仕事に復帰できるのか、亮に聞いたんだよ。そしたらあいつ『もう工場には戻らない、これ以上迷惑はかけられない』って。カナコ先輩のこと見て『こいつとどこかでやっていきます』って。」
「?どういうことですか…?」

 航は、部屋が泣き出しそうなほどの悲しい目。部屋が崩れ落ちてしまいそうなほどの重いため息。

「妊娠してたらしい。」
「…え…?…加波子先輩…が…?」
「子供のためにも、東京離れて誰も知らない遠い場所で、静かに暮らしたかったんだろう。…オレは止めた、当たり前だ。…でもあいつらは変わらなかった…。それが生きてるあいつらを見たのが最後だった。」

 百合も悲しい目。潤んだ悲しい目。

「2人同じ日に退院して、その次の日だった。事件があったのは。」
「そんな…!」
「残酷だよな。理由があってもなくても、()る時は()る連中だからな。でも、でもな…。」
「…何ですか…?航さん…。」
「あいつらの最期。ふたり寄り添ってたらしい。ぴったり、同化するように…。」

 航は下を向いた。百合は目線で航を起き上がらせようとする。

「それ聞いて、すげー安心したんだ…。最期に離れ離れなんて、あいつらには考えられなかった。それくらい、2人の絆は本当に強かったんだよ。それくらい…あいつら…。」

 航の声がどんどん小さくなる。震えてくる。

「オレはあいつに何も聞かなかった…。それがあいつの為だと思ってた、それでいいと思ってたんだよ…。でも…オレにも何かできることがあったはずだ…。そうすれば何か違ってたかもしれない…。毎日一緒にいたのに…オレはあいつに何もできなかった…。後んなって気づいても…遅ぇし、悔やんでも悔やみ切れねぇし…。…何やってたんだ、オレ…。」

 両腕で頭を抱える航に、百合は強く言う。航に、亮に、届くようにと。

「そんなことないです!亮…さんは、航さんが持つ、航さんしか持っていないやさしさを、亮さんは感じていたと思います。私が感じている航さんのやさしさを、亮さんは毎日感じていたんです。だから航さんが、いてくれるだけでありがたくて…嬉しかった、心強かったと思います。航さんが亮さんを思うくらい、亮さんも航さんを大切に思って…。今だって、きっと亮さんは…航さんのこと…。」

 言葉に詰まった百合は、膝を立て航を抱きしめる。気付けば涙が百合の頬をつたっていた。

 百合の背にゆっくり腕をまわす航の腕は震えていた。航の聞こえない泣き声、聞こえない想い。それを百合はずっと聞いていた。

 その時、百合は初めて航の髪をなでた。航の話が悲し過ぎて、航が愛おし過ぎて。ふたりはずっと抱きしめ合っていた。

「百合。」

 航は百合の腕を掴む。やさしく返事をする百合。

「何ですか?航さん。」
「来月、あいつらの命日なんだ。一緒に会いに行ってくれるか?」
「もちろんです…私が行っていいのなら…。」
「亮に、あんたのことを紹介したい。カナコ先輩も喜ぶだろ。」
「はい…行きます…。ありがとう、航さん…。」

 百合は微笑んだ。

「あ…、亮さんとは初めましてだし、加波子先輩とはお久しぶりだし…緊張しちゃうな…。どんな顔すればいいかな…。」

 いつものようにぶつぶつ言う百合を見て、航に安心感。百合の頭をなでる。

「ありがとな…百合…。」

 百合はいつもの百合で答えた。

「話してくれて、嬉しいです。航さんに何があったのか、知ることができました。亮さんと加波子先輩を知ることも…。本当にありがとうございます、航さん…。あ…コーヒー、飲みましょ。冷めちゃいます。」

 マグカップに手をつける航。

「あいつら、2人とも酒を飲まないやつらで、コーヒーが好きだったんだよ。」

 百合は思い付く。

「じゃあ、たまには私たちも飲みましょう。月命日には必ず、とか。どうですか?」
「あんたはほんとにやさしいんだな…。」
「私達の、大切な人達のことじゃないですか。」

 百合はやさしく笑いながらマグカップを持つ。コーヒーを飲んだ。航もコーヒーを飲む。

「たまにはいいな、ゆっくりコーヒー飲むのも。」
「インスタントですけど…。」
「充分だ…。」

 涙の後。ふたりの心を暖める、一杯のコーヒー。
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