となりに座らないで!~優しいバレンタイン~
「広瀬グループの広瀬です。約束はしていないのですが、社長はいらっしゃいますでしょうか?」

 表情ひとつ変えず、セリフのようにスムーズに言葉が流れてくる。怖いくらいだ。


「少々お待ちください」

 慌てて受付の受話器を持ち、社長室の内線をプッシュする。

 広瀬社長が見えた事を伝えると、社長室に通すよう命じられた。この流れでは、私が社長室に案内するしかない。


 「お待たせしました。ご案内いたします」

 広瀬社長の斜め前を歩く。

 高そうなスーツをビシッと決め、背筋の伸びた姿はカッコいいが、表情一つ変えない冷たさは、昨日の広瀬社長と同一人物であるとは思えない。何かの間違いではないかと思ってしまう。

 でも、夕べ夕食を一緒に食べたのは広瀬社長だったはず。何か言わなきゃと思うのだが、小さな会社の社長室などものの数秒で着いてしまった。


 社長室のドアをノックする。
 ドアノブを回し、広瀬社長の顔に目を向けると、やはり無表情の冷たい顔だ。とても、声などかけられなかった。



 自分のデスクに戻ると、思わず大きなため息が漏れた。

 「お疲れ様。広瀬社長ってカッコいいけど、冷たい感じがして怖いわよね。案内するだけで疲れちゃうよね」

 隣の席の、先輩の堀野さんが、笑顔をこちらへ向けていった。堀野さんはやんわりとした、可愛らしい人で、気楽に話の出来る先輩だ。


 広瀬社長の名を言われ、なぜだか急に顔が熱くなった。

 「ははは……  そうですねー 緊張したー」

 なに動揺しているんだろ?
 
 堀野さんの目が、不思議そうにこちらに向けられた。

 大丈夫ですと、笑顔を返すが精一杯だった。



 後十分で定時だ。
 社長との話だ、時間がかかるだろう……

 広瀬社長に会う前に帰ったほうがいいかもしれない。幸い、月末月初の処理も終わり、定時で上がれそうだ。


 定時のチャイムが鳴ると、急いでデスクを片付け、逃げるように更衣室に向かった。

 
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