溺愛の価値、初恋の値段
水曜日の真実
「亡くなった……?」
音無さんは愕然とした表情でよろめき、素早く立ち上がった飛鷹くんが腕を掴んで支える。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、すみません……」
「海音、椅子を貸して」
「は、はいっ」
わたしの椅子に音無さんを座らせ、飛鷹くんは給仕を呼んだ。
椅子をもう一脚とお水を用意してもらう。
音無さんは、冷たい水が入ったグラスを握りしめてしばらくじっと俯いていたけれど、やがてひと息に飲み干した。
「なぜ、亡くなったのか……聞いても?」
縋るようなまなざしで見つめられ、わたしは口を開いた。
「母は、癌だったんです。わかった時には、手遅れでした。余命一年と言われて……でも、予想以上に進行が早くて。一年も経たずに亡くなりました」
「そう……」
音無さんは俯いて深々と息を吐き、気持ちを切り替えるように、再び顔を上げた。
「それからは……君とお父さんの二人暮らし?」
「いえ。父はいません」
「……いない?」
怪訝な顔をされ、わたしは正直に答えた。
「母は、シングルマザーだったんです。わたしは、誰が父親なのかも知りません」
「いやそんな馬鹿な……そんなはずはない。僕は咲良に……君のお母さんに聞いたんだよ。結婚して、子どもがいるって」
「咲良さんは、一度も結婚していません。父親のわからない子を妊娠したために、実家を追い出され、高校を中退して海音を産んだんです」
飛鷹くんの話に目を見開き、音無さんは小さな声でわたしに尋ねた。
「君は……いま、何歳? 咲良が君を産んだのは、いつ?」
「二十六になります。母がわたしを産んだのは、十七歳の時です」
「君の、名前……アマネは、どんな字を書くの?」
「海の音、です」
くぐもった声で「そうか……」と呟いた音無さんの目から、涙があふれた。
「え、あの、大丈夫ですかっ!?」
大人の男の人が涙を流す姿を初めて見たわたしは、うろたえ、バッグの中を慌ててかきまわしてハンカチを取り出した。
「これ、使ってください」
「……ありがとう。取り乱してしまって、申し訳ない」
ハンカチを受け取った音無さんは、わたしを見つめ、静かな声で告げた。
「僕が、君の父親だと思う」