溺愛の価値、初恋の値段
「待たせてごめんね。ここから、すぐだから」
その言葉どおり、音無さんのマンションは目と鼻の先だった。
地下の駐車場へ車を入れ、そこからエレベーターで三十階へ。
ワンフロアに三戸あるものの、隣人と顔を合わせることはないという。
「ここ、駅近くの飲食店関係者が多いんだよ」
部屋は2LDKで、テーブルに雑誌があったりするけれど、ほどよく片付いている。
ただ、どう見てもキッチンのほうがリビングより広い。
「ひとり暮らしだと、くつろぐスペースはそんなにいらないし、家に誰かを招くと言っても、店の見習いとかだからキッチンを広くしてもらったんだ。ところで、お酒がいい? カフェオレがいい?」
「カフェオレが、いいです」
「ソファーに座ってて。観たかったら、テレビつけてね? 音楽は……好きそうなのがあれば、自由にどうぞ」
壁際には高そうなオーディオセットがあり、かなりの枚数のCDが棚に並んでいた。
どれがいいかなんてわからなかったので、男性がレコーディングしているような表紙のものを選んだ。
流れ出したのは、中性的な甘い歌声。
不思議と耳に心地よくて、ついジャケットをしげしげと眺めていたら「できたよ」と声をかけられた。
「…………か。ジャズが好きなの?」
「いえ……ぜんぜん、わかりません」
音無さんが告げた歌手の名前は、知らなかった。
「彼は、いまで言う二刀流ってやつだね。歌も楽器もできるイケメンで、若い頃はものすごく人気があったらしい。なかなか波乱万丈な人生を送っていて、自伝的な映画もあるよ」
大きなマグカップに入れられたカフェオレを手渡される。
「音無さんは、ジャズが好きなんですか?」
「そればかり聴くわけじゃないけど、好きの部類に入るかな。誰かが勝手に置いていったCDとかも混ざってるから、全部聴いてるわけじゃない」
受け取ったカフェオレを口に含み、温かい液体が胃に届くのを感じて、ほっとした。
「今日、お店……早く閉めたんですね?」
「うん。うちは予約の動向を見て休みを決めたりしている不定休だから、休日前はいつもより営業時間を短くしてるんだ。よく働くためには、よく休まないと身体がもたない。僕が厨房に立つようになって真っ先に思ったことは、料理人になるには体力が必要だってことだね」
「長いお休みは、取らないんですか?」
「年末年始は、和食の需要のほうが多いから休んでるよ。予約を調整すれば長期の休みを取れなくもないんだけど、デートする相手もいないからね。どうせ家でゴロゴロするだけなら、料理していたほうがいいし」
「料理が恋人なんですね」
「料理以外の恋人はできない、寂しいオジサンだよ……」
はあ、と大きな溜息を吐いた音無さんは、空になったわたしのマグカップを取り上げた。
「僕はね、落ち込んだ時はゆっくり風呂に入って、たっぷり寝て、明日のことは目が覚めてから考えるようにしているんだ。うちの風呂は、自分で言うのもなんだけど、なかなか優れモノだよ。これ、よかったから使って」
手渡されたビニール袋の中には、メイク落としや化粧水、歯ブラシなどのお泊まりセットとTシャツ……女性用のパンツも入っている。
これらを買うために、わざわざコンビニに寄ってくれたのだと思うと、申し訳なくなった。
「あの、こんなことまで……」
「服は、今夜のうちに洗濯すれば明日の朝までには乾くからね」
わたしに洗濯機の使い方を説明してくれた音無さんは、ほんのり顔を赤くして言葉を付け足した。
「本音を言うと……それを買うのは、ものすごく恥ずかしかった。あそこのコンビニ常連だし。使ってもらえないと困る。そうじゃないと……僕、ただの変態だから」