溺愛の価値、初恋の値段
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どうやって学校へ来たのか、覚えていない。
気がつけば、わたしは保健室のベッドの上にいて、担任の「むーやん」こと武藤先生の前で泣きじゃくっていた。
「そうか……俺も、おまえの母さんの言うように、F県へ引っ越すのが一番だと思うよ。通院するにしても、入院するにしても、おまえのことが心配だと治療に専念できないだろう? いまのおまえの成績なら、F県の公立高校でも問題なく受かるだろうし……」
「……わたし、一度もおじいちゃんとおばあちゃんに会ったことない」
お母さんは、この先入退院を繰り返す可能性がある。わたしをアパートにひとりで住まわせるわけにはいかないので、祖父母と同居させてもらうつもりのようだ。
でも、わたしは祖父母と一度も会ったことがなかった。
どんな人たちかもわからないのに、いきなり同居するというのはハードルが高い。
「おまえの母さん次第だけど、私立でもいいなら、F県には寄宿制の女子校もあるぞ」
「寄宿制、ですか?」
寄宿制の学校なら、住む場所の心配はいらない。
しかも女子校なら、お母さんも安心できるだろう。
私立学校はお金がかかるけれど、奨学金がもらえるなら、なんとかなるかもしれない。
武藤先生の提案は、とてもいい解決策のように思えた。
「うん。いわゆるお嬢様学校ってやつだな。裕福な家庭の子が通うから、その分寄付金も豊富で、奨学金制度が充実している。俺の友人が何人かあっちで教職に就いているから、そこ以外でもおまえに合いそうな学校があるか、訊いてみようか」
「はい……お願いします」
「まずは、ちゃんと食べて、ちゃんと寝ること。これ、先生の番号な。何かあったら連絡して来い。おまえの番号も教えろ。念のため言っておくけど、ナンパじゃないぞ?」
武藤先生は、角刈りのコワモテだけれど、冗談好きだ。
わたしは、思わずくすりと笑ってしまった。
「はい、ありがとうございます」
眼鏡を取って、ハンカチで顔を拭う。
なぜか、武藤先生はぽかんとした表情をしている。
「先生……?」
「なるほどな。やっぱ、頭のいいヤツは人には見えないものが見えてるのかもなぁ。湊、おまえ眼鏡してたほうがいいぞ」
「………?」
「今日は、このまま早退していいぞ。おまえの母さんに、お会いしたいと伝えておいてくれないか」
わけのわからない武藤先生に促され、座っていたベッドから下りる。
朝からずっと張り詰めていた気持ちは、泣いたおかげか少し和らいでいた。
まだ、先のことは考えられないけれど、わたしがオロオロしていたら、お母さんが心配する。
「気をつけて帰れよ!」
生徒玄関までわたしを見送ってくれた武藤先生を振り返る。
「あの……先生」
「なんだ?」
「誰にも、言わないでおいてもらえますか。進路のことも……お母さんのことも」
武藤先生は、わたしと飛鷹くんの秘密の関係を知らないはずだけれど、どこからどう話が漏れるかわからない。受験を控えている飛鷹くんに、心配をかけたくなかった。
武藤先生は何か言いたげな顔をしたけれど、わたしの願いを聞き入れてくれた。
「わかった。でも……大事な相手には、早く話したほうがいい。先延ばしにしても、いいことなんか一つもないぞ」