溺愛の価値、初恋の値段
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車に轢かれる! と思ったところで意識は途切れ……次に目覚めた時、わたしは病院にいた。
怪我の処置などをしてくれたのは四十代くらいの医師。下村先生というらしい。
「額の傷は深いものではありません。骨折もなく、打ち身程度ですが、肺炎になりかかっていますので点滴をしています。脳震盪の疑いもありますし、一晩入院してもらって、何事もなければ明日、退院としましょう」
下村先生は、淡々と検査結果などを説明したのち、わたしに一泊の入院を申し渡した。
車には軽く接触した程度だったのか、額に傷パッドを貼られているだけで、骨折もしていなければ打撲もない。
とはいえ、突然車の前に倒れて来たわたしに、運転していた人はさぞかし驚いたことだろう。迷惑をかけてしまって申し訳ないと思う。
「ご家族への連絡などは、羽柴先生がしてくれました。彼女のご友人だそうですね?」
「ええ、はい」
高校時代の親友の名を聞いて、自分はN市の大学病院に運ばれたのだと知る。
研修医として働く彼女には、高校時代からずっと世話になりっぱなしだ。
「何か気になることや訊きたいことがあれば、羽柴先生に。湊さんが病院に運ばれて来た時、最初に対応したのは彼女ですから。ああ、噂をすれば……羽柴先生、あとはよろしく。では、お大事に」
「ありがとうございます」
下村先生と入れ替わりに部屋へ入って来たのは、白衣姿の小柄な美人女医。
透き通るような白い肌に艶やかな黒髪。きれいなアーモンド形の目にぽってりした赤い唇。
老若男女問わず見惚れてしまう美貌に、超難関医学部を首席で卒業する頭脳。
天は彼女に二物を与えている。
「海音! 何回言えばわかるのかしら? ちょっとでも体調が悪かったら来なさいと言っているでしょう?」
仁王立ちで眉をヒクつかせる高校時代からの親友――羽柴 雅に睨まれて、わたしはベッドの上で首を竦めた。
雅は、お母さんの主治医だった羽柴先生の娘だ。
彼女とは、F県の女子校で偶然同じクラスになったのが縁で、親しくなった。
中等部から寄宿生活を送っていたお嬢様の雅は、幼い頃に母親を亡くしている。
父子家庭と母子家庭という似たような境遇だったせいか、なんとなく気が合った。
入学してからひと月後には、賢い雅がわたしに勉強を教え、わたしは雅に料理を教えるという関係が自然に出来上がっていた。
雅が羽柴先生の娘だと最初から知っていたわけではない。
わたしが、彼女の言う「だらしなくて、むさくるしいお父さん」の正体を知ったのは、友人になってから二か月ほど経った頃にやって来た『父の日』だ。
料理を教えるために何度か訪問していた雅の家で、初めて彼女のお父さん――髪の毛はボサボサ、髭は生やしっぱなし、伸びきったTシャツにゆるゆるスウェット姿の羽柴先生と出くわした。
羽柴先生は、「そんな恰好でお客様の前に出るなんて、信じられない!」と雅に叱られてしゅんとしていた。
でも、彼女が初めて作った肉じゃが(らしきもの)を食べる顔はとても嬉しそうで、わたしまで幸せな気分になったのをいまでも憶えている。