溺愛の価値、初恋の値段
ビクリと大きく肩を揺らしたわたしに気づき、飛鷹くんは唇を離した。

眉根を寄せて、ぽつりと呟く。




「……サイテー」




血の気が引いた。


喉が締まり、ひゅっと奇妙な音を立てる。
ぐらりと視界が揺れる。

思い出してはダメだと呪文のように唱えながら、ぎゅっと目をつぶろうとして……肩を揺さぶられた。


「海音? どうかした?」

 
ややあって、焦点が合った視界には、心配そうな顔をした飛鷹くんがいる。
 
あの頃とはちがう。大人になった飛鷹くんだ。


「……だ、いじょうぶ」

「気分が悪いなら、病院に……」

「なんでもない、大丈夫だから!」


わたしは、無理やり口角を上げて、微笑んだ。
ダテに社会人を何年もやっていない。心の内を覆い隠すことくらいできる。
訝しげな表情で見つめる飛鷹くんの横をすり抜ける。


「ロメオさんのスープ、美味しそうな匂いがしていたね? 食べるの楽しみ」


キッチンでは、ロメオさんは鼻歌を歌いながらスープの味見をしていた。


「何か、お手伝いできることありますか? ロメオさん」

「ありがとう、海音ちゃん。じゃあ、コーヒー淹れてくれる? 豆はそこの棚にあるから。コーヒーメーカー使って」


スタイリッシュなデザインのコーヒーメーカーは、ミル付き。でも、予想に反して、エスプレッソマシンではない。


「空也はエスプレッソを飲まないし、僕はお店で飲むから」


なんで考えていることがわかったのだろうと不思議に思うわたしに、ロメオさんは苦笑した。


「海音ちゃん、思ってることの大半が口に出てるよ」

「えっ!」

「バーで会った時とは、ぜんぜん違うね? あの時は、クールビューティーって言うんだっけ? 大人の女性だったのに……いまは、表情豊かでわかりやすい」


すっと手を伸ばしたロメオさんが何をしようとしているのか疑問を抱く前に、彼の指が唇に軽く触れた。


「バレバレ」


思わせぶりな視線の先には、キッチンのテーブルの上でフランスパンを細切れにする飛鷹くんがいた。

キスとその後に呟かれた言葉を思い出しそうになり、慌てて目を逸らす。

どうして飛鷹くんがあんなことをしたのかわからないけれど、「サイテー」と呟いたのだから、きっと喜べるような理由ではない。


「空也。それ、クルトンにでもするつもり?」

「スープに入れて食べればいいだろ」

「それなら、ミネストローネじゃなく、オニオンスープにしたのに。ごめんね? 海音ちゃん。空也が、暴君の俺様で」

「誰が、暴君の俺様だよっ!」

「僕は空也とちがって、イケメンの女性に優しい紳士だからね? 海音ちゃん、お皿出してくれる? 空也は、飛び散ったパンくずをきれいにして!」


テキパキと指示するロメオさんは、いつの間にか作っていた半熟の目玉焼きとカリカリのベーコン、鮮やかな緑色のアスパラをお皿に載せ、スープカップに赤いミネストローネを注ぐ。

飛鷹くんが飛び散ったパンくずを片づけたテーブルに、シンプルだけれど彩り豊かな料理が並んだ。
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